著者
小西 瑞恵 コニシ ミズエ Mizue KONISHI
雑誌
大阪樟蔭女子大学学芸学部論集
巻号頁・発行日
vol.46, pp.177-188, 2009-01-31

ここで取り上げるのは、日本の16世紀から17世紀におけるキリスト教徒の女性たちで、彼女らがどのような社会状況におかれ、どのように人生を全うしたのかという歴史的事実を検討することが本稿の目的である。畿内とその周辺地域を中心に、都市のキリシタン女性の実像を検討した。一例は堺の日比屋了桂の娘モニカであり、もう一例は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)である。日比屋モニカは貿易商人・豪商で堺のキリシタンの中心人物である父了桂のもとで育った敬虔なキリシタンであったが、その婚約は彼女の意に染まぬものであったため、宣教師に相談して結婚を拒否しようとした。彼女の結婚と死は、都市堺で精一杯意志的に生きようとしたキリシタン女性の生涯の実例である。また、細川ガラシャは明智光秀の娘玉で、細川忠興夫人である。彼女が謀反人の娘として社会的に孤立するなかでキリスト教に帰依するまでのいきさつを、従来の説のように高山右近の影響から考えるだけではなく、侍女清原マリアとの強い結びつきから明らかにした。彼女が死ぬまでの劇的な生涯は、当時の日本社会で自立的に生きぬこうとした女性の典型的な例である。最近の研究により、ガラシャがヨーロッパにまで聞こえた有名な存在であったという事実についても述べた。
著者
小西 瑞恵 コニシ ミズエ Mizue KONISHI
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.3-14, 2013-01-31
著者
小西 瑞恵 コニシ ミズエ Mizue KONISHI
雑誌
大阪樟蔭女子大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.3-14, 2011-01-31

中世の大阪地域で活躍した武士団の実像を、河内水走氏と摂津渡辺党・渡辺氏について実証した。中世後期の武士団を検討するという第一の課題については、畿内型武士団としての水走氏や渡辺氏が、南北朝時代には南朝方や北朝方に帰属しながら、室町時代には幕府の守護領国体制に組み込まれていく過程を、あきらかにできた。水走氏と渡辺党を比較するという第二の課題については、畿内型武士団としての特徴に基本的な相違はないが、水走氏は枚岡神社の祀官として江戸時代も中河内の名族としての地位を保ち、渡辺氏は豊臣秀吉の大坂城が築かれた頃、渡辺の地を離れて奈良に去るという違いについて、地域の歴史の違いとして検討を加えた。中世の国家機構を構成する朝廷・官衙や権門寺社と幕府に奉仕したのが、畿内型武士団としての水走氏や渡辺党であった。水走氏や渡辺氏が水軍・武士団として交通や流通機能を担ったことが、中世を通じて活躍した独自の強さの理由であり、また、近世に武士身分として生き残れなかった理由でもある。
著者
小西 瑞恵 コニシ ミズエ Mizue KONISHI
雑誌
大阪樟蔭女子大学学芸学部論集
巻号頁・発行日
vol.44, pp.19-33, 2007-03-20

大阪中津にある南蛮文化館(北村芳郎館長)には、美しい黄金の十字架が保存されている。この十字架は、北村芳郎館長の解説によると、1951年に長崎県南有馬町(南島原市)の原城本丸跡から発見されたが、実は天正の遣欧少年使節がローマ教皇から託されて日本に持ち帰り、キリシタン大名有馬晴信(プロタジオ)に贈ったものであるという。この黄金の十字架について、最初に、これまで不明であった十字架発見の状況(発見者や発見場所)を初めて明らかにした。次に、文献史料(原文はイタリア語)により、これは十字架の形をした聖遺物入れであり、有馬晴信の遺品であることを確認した。天正遣欧使節については、織田信長が狩野永徳に描かせて託したローマ教皇への贈物(安土城の屏風絵)が探し求められているが、この十字架は使節が日本に持ち帰った教皇からの贈物である。なぜ島原の乱の舞台となった原城跡に、有馬晴信の遺品が埋もれていたかという問題については、同じく晴信の遺品である山梨県甲州市大和町栖雲寺蔵「伝虚空蔵菩薩画像」(最近、泉武夫氏により元末14世紀の景教聖像であることが実証された)について述べ、キリシタン大名として刑死した晴信の側近くにいた者が、島原の乱の際に原城跡で殉教したのであろうと推論した。
著者
小西 瑞恵 コニシ ミズエ Mizue KONISHI
雑誌
大阪樟蔭女子大学学芸学部論集
巻号頁・発行日
vol.41, pp.37-54, 2004-03-06

本稿は、女性史の立場から御伽草子の歴史的意味を再検討し、「鉢かづき」を素材に分析したものである。最初に、御伽草子研究を回顧して、1950年代の林屋辰三郎による町衆文化論と1970年代のバーバラ・ルーシュによる批判を検討した。町衆文化論は、御伽草子は室町時代の都市京都の発展を基盤とした町衆の文化的所産とするものであり、バーバラ・ルーシュの批判は、御伽草子は下克上を主題とする庶民文学ではなく、国民文学であるという主張と、作者が町衆ではなく、漂泊の宗教的・世俗的芸人たちの手になったものであるという主張であった。その芸人には次の二つのタイプがあり、第一のタイプは絵解きと呼ばれた男女の芸人たち(絵解法師・熊野比丘尼)で、第二のタイプは琵琶法師と瞽女である。この二説を検討し、最近の伊東正子の御伽草子絵論や松浪久子の民間伝承論を参照しながら、両説とも必ずしも矛盾するものではないことを明らかにしたうえで、1980年以降、御伽草子論を展開してきた黒田日出男の仕事や、保立道久の具体的な分析を引用しながら、「鉢かづき」の主題を検討した。なかでも、「鉢かづき」の鉢について、同時代の絵画資料に描かれた市で働く販女の頭上運搬との関わりに注目した。御伽草子(奈良絵本)の生産・流通に職人が多く関わっていたのであるから、鉢にも当時の庶民の風俗が反映したと思われるのである。なお、「鉢かづき」には写本・刊本が多くあり、流布本としての渋川版を中心に分析したが、異本である御巫本系統の京都大学総合人間学部図書館蔵「はちかづき」と、寝屋長者(交野長者)伝説を背景とする寝屋川市役所蔵本「寝屋長者鉢かづき」についても述べた。
著者
小西 瑞恵 コニシ ミズエ Mizue KONISHI
雑誌
大阪樟蔭女子大学学芸学部論集
巻号頁・発行日
vol.45, pp.233-246, 2008-01-31

国際港湾都市として知られる長崎は、1580年(天正8)から1587年(天正15)まで、イエズス会が支配する教会領の自治都市であった。この自治都市長崎の歴史については、1970年代に始まる安野眞幸氏の詳細な研究があるが、都市史研究者でさえ、それを熟知しているとはいえない。また、その歴史的位置についても、都市史の上で共通の理解が成立しているとはいえない。その理由は、最近の都市論がヨーロッパの自治都市と日本の自治都市との比較研究を軽視する傾向があるためである。しかし、私は16世紀から17世紀にいたる日本の歴史を考える上で、教会領長崎の検討が重要であると考える。15世紀から17世紀半ばにいたる大航海時代についても、従来のようなヨーロッパ中心の史観ではなく、アジアを主体として考えるという新しい研究動向をうけて、あらためて自治都市長崎を検討することが必要になっている。ここで安野氏の研究を中心に研究史をふりかえり、自治都市長崎の歴史と歴史的位置を検討した。その結果、自治都市長崎が安野氏や網野善彦氏が述べているように、同時代の堺や伊勢大湊と同じ公界である事実を確認し、詳細な比較検討が可能であることを例証した。たとえば、自治都市長崎の自治組織は10人前後の頭人たちが構成する「頭人中」「惣中」であったが、これは堺の会合衆が10人であったことと一致する。また、港湾の管理運営についても、長崎では大湊と同様、公界によって行われていたと推測した。このような比較検討を、さらに進める必要がある。教会領長崎の信仰・宗教の中心は、氏神神宮寺のイエズス会による破壊によってキリスト教(教会)になるが、権力による破壊と弾圧を経て、江戸時代には氏神としての諏訪神社の再建と回帰(長崎おくんち)にいたることも述べた。