著者
Randall William T.
出版者
沖縄国際大学外国語学会
雑誌
沖縄国際大学外国語研究 (ISSN:1343070X)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.31-61, 2003-03

ジャン・ヴァン・リーベック(Jan Van Riebeeck)は、1652年に、現在ケープタウン(南アフリカ共和国の立法首都)として知られる港湾にオランダ東インド会社を設立した。それは、サハラ砂漠以南のアフリカヘのヨーロッパ人の最初の入植を意味するものだった。オランダ系南アフリカ移住者(Boers)として知られるオランダ人たちは、南アフリカ原住民を搾取し、彼地から追い出した。だが、オランダ人は彼地を植民地化したり、南アフリカ人を奴隷にすることはなかった。奴隷はアフリカの他の場所やアジアから輸入された。1795年、イギリス人がやってきてケープタウンを植民地化し、アフリカの原住民である黒人を抑圧し、オランダ系移住者をケープからトランスバール(Transvaal)へと追い出した。そして、19世紀末に彼らが金やダイヤモンドを発見すると、イギリス人はトランスバールを軍事力によって併合し、南アフリカ全体を植民地化した。19世紀半ば、イギリス人はアジア人(ほとんどがインド人)を年季奉公労務者として初めて南アフリカにつれてきた。このアジア人たちは1834年に廃止された奴隷にとってかわるべき安価な労働の源泉をなすものであった。彼らの次にやってきたのは同じアジアのビジネスマン、教師、他の専門職従事者であった。この複合的社会は混沌と矛盾にみちたものであった。モハンダス・K・ガンディー(1869〜1948年)は、1893年、法律家(弁護士)として南アフリカ入りし、以後21年間にわたって彼地に滞在しインド人の尊厳と公民権確立のために尽力した。ガンディーは、危険なほど密集したインド人居住地にアフリカの黒人たちを移住させることに抗議して、イギリス人当局者に書簡を送った。遺憾なことに、彼はくだんの抗議文の中で南アフリカの社会的矛盾を例示するカフィア(kaffir)という言葉を使ってしまった。それは、通常、白人たちが黒人に侮蔑の念をこめて使うニガー(黒ん坊)を意味するものであった。この差別用語「カフィア」を使った抗議文こそ、ガンディーを南アフリカ黒人差別主義者として論難する根拠となり続けたものである。本論文は、そういう誤解を招いた問題の書簡を社会的にも歴史的にも正当な論脈の中で考えなおし、「ガンディー」即「人種差別主義者」という偏見を正すために書いたものである。