著者
SUENAGA Eriko
出版者
京都大学文学研究科宗教学専修
雑誌
宗教学研究室紀要 (ISSN:18801900)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.3-30, 2013-11-29

本研究の目的は、「無限の観念の現象学」という構想のもとでなされたエマニュエル・レヴィナスの一連の思索について、「方法」という視点からひとつの問題系を練り上げることにある。「方法=~への道筋(methodos)」とは、ひとがそれを通じてどこか意味のある場所に辿り着いた時に初めて、「辿るべき道」として「辿られた道」であることが知られる性質のものである。レヴィナスの方法もまた、ある意味が観念に到来するという出来事に付随する諸々の「事情・状況」を探し求め、これを復元する「仕方」という意義をもつ。その源泉となるのが、現象学における「志向的分析という方法」と修辞学における「誇張法」である。レヴィナスにおいて、前者は、フッサールの現象学的還元(純粋意識を主題化するプロセス)に対応する「現象学的演繹」という形を取る。この演繹は、対象に没入している思惟が身を置く諸々の「場面」をこの思惟のために再現し、素朴な思惟を我に返らせる手続きである。「激化・激高」という形を取る後者は、ある観念から観念内容の誇張によってその最上級へと移行し、もとの観念をこの新たな観念で以って正当化する手続きである。実は、どちらの手続きも、志向的分析という方法の縮減不可能な本質である〈手前への遡行による手前の発見〉を体現している。だからこそ、それらは全体として、レヴィナスが考える哲学の、むしろ現象学の「課題」--ある種の裏切りを代価とした、語りえないものの我々の前での「翻訳」と、この裏切りの絶え間ない「縮減」--を遂行する「仕方」となりうる。本研究のテーゼは、以上のような方法が適用される固有の領域が、無限の観念をめぐる現象学であること、この現象学が、〈欲望の現象学〉と〈暴力の現象学〉という二つの半球(劇場空間)から成るひとつの球体のようなものであり、「私の内に置かれた無限という形象」を中枢にもつということである。