著者
Saitō Akira
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.17-25, 2013-03-31

チャンドラキールティ作『プラサンナパダー(明句論)』Prasannapadāの第25「涅槃の考察」章には,校訂者のラ・ヴァレ・プサンも完全なかたちの校訂を断念した2つの経典引用がある.2つの経典引用は,それぞれ第1偈(涅槃の可能性をめぐる,反論者による空批判)および第3偈(ナーガールジュナによるニルヴァーナの特徴づけ)をチャンドラキールティが注釈する中で引用される.ラ・ヴァレ・プサンが校訂を断念した背景には,校訂者が利用した『プラサンナパダー』の3写本(カルカッタ,ケンブリッジ,パリ)が比較的新しい類似写本で,カトマンドゥ・ケーサル図書館蔵の紙写本,オクスフォード大学・ボドレー図書館蔵の貝葉写本,およびラサ・ポタラ宮殿蔵の貝葉写本等の古層の写本が発見されていなかったという事情もあった.これに加えてまた,今日では『プラサンナパダー』に対する著者不明の貴重な複注文献も公にされ,米澤嘉康によって研究が進められている.本研究は,『プラサンナパダー』をめぐる以上のような研究環境の進展と,近年におけるパーリ語仏典(本稿との関連では『ウダーナ』)および初期大乗仏典(同じく『聖般若波羅蜜多宝徳蔵偈』,以下『宝徳蔵般若』と略す)の研究の蓄積を踏まえ,あらためて上記の2つの経典引用のテキストとその典拠を考察した.その結果,第1の経典引用は『ウダーナ』8.9に対応するもので,現行のパーリ本と比較するとき,いくつかの特徴が注目される.チャンドラキールティの引用は基本的にパーリ文であったと推定されるが,部分的にサンスクリット化され,されにまた動詞(アオリスト)表現の一文に代わって,名詞構文が採用されている事実も確認された.第2の経典引用は『宝徳蔵般若』22.6に対応するもので,異なる系統の写本にもとづきA(湯山本)とB(オーバーミラー本)2つの校訂本が公にされるなか,基本的にVasantatilakā 韻律に従い,部分的ながらも,A,B 両校訂本のいずれとも異なる読みを採用している点は注目される.本引用の典拠が確認されたことにより,『プラサンナパダー』に引用される『宝徳蔵般若』偈は,従来の研究で知られていた2つの偈の他に,新たに当該偈が加わり,総計で3偈の引用が確認されることになった.本論文では,20近くの存在が報告される『プラサンナパダー』写本の中で,とくに重要と目される古層の3本を含む6写本をもとに,上述の複注文献およびチベット語訳を参照しながら,チャンドラキールティが引用した際の両経典のテキストの復元を試みた.本研究の成果が,今後の『プラサンナパダー』所引経典の精査とともに,典拠となった経典の再検討をうながす一つの契機となれば,本稿の主要な目的は果たされたといえよう.