- 著者
-
平川 祐弘
Sukehiro HIRAKAWA
- 出版者
- 大手前大学・大手前短期大学
- 雑誌
- 大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
- 巻号頁・発行日
- vol.5, pp.107-126, 2004
平川はかねて「盆踊りの系譜-ロティ・ハーン・柳田国男」と題して文学的な連鎖反応としての盆踊りの記述をたどった (平川『オリエンタルな夢』所収) 。ロティのバンバラ族の輪舞記述に感心したハーンは、それを英訳し、さらにはロティのような目付きで山陰の盆踊りも見、記録したのである。そのような文学史的な系譜には筆者の主観的な思い入れがまぎれこむ可能性がある。ハーンに刺戟された柳田国男が陸中小子内で書きとめた盆踊りの解釈も、川田順造の調査によれば、柳田の思い入れがあるようだ。またハーンの盆踊り記述を読み、自分も盆踊りを見て書いたモラエスの「徳島の盆踊り」解釈にも観念的な先入主が混じっているのではないか。日本人が死者たちと親しい関係にあるとモラエスは信じた。ハーンもモラエスも盆祭りを festival of the dead として見た。ところでロティやフランシス・キングが盆祭りを自分の物語のセッティングとして用いた異国趣味の作家であったのに対し、モラエスにとって盆踊りは自分がその輪の中にはいることを得なかった「死者の祭り」であった。その意味ではモラエスの『徳島の盆踊り』はアンチ・クライマックスで終る作品である。その拍子抜けした読後感をハーンの作物の読後感と対比すると、ハーンの特色が逆に浮び上がる。ハーンには自分は日本人の心の世界へ入り得たという喜びがあった。ハーンの文章を文学たらしめているのは、そのようなハーンの自信と喜びの中にひそんでいるのではあるまいか。