- 著者
-
高村 峰生
TAKAMURA Mineo
- 雑誌
- 女性学評論 = Women's studies forum
- 巻号頁・発行日
- vol.29, pp.51-69, 2015-03
本論はスウェーデンの映画監督であるイングマール・ベルイマンの『秋のソナタ』(1978)において顔がどのように表現され、映画の時間性と結びついているかを、特に母娘の口論の場面に注目して分析している。序論ではベルイマンのクローズアップの典型例として『不良少女モニカ』(1953)における主人公モニカの顔を捉えたシーンに触れ、この場面が表情の微細な変化に観客の関心を向けさせ、ステレオタイプ化された表情と対立するような顔を持続的な時間のうちに表現していると論じた。このモニカのショットは現在時間の持続を捉えているが、『秋のソナタ』においては過去が重要な意味を持っている。夫を失ったばかりのシャルロッテは娘のエヴァの家を訪問するが、そこでいままで目を背けていた過去と対面させられる。たとえば、シャルロッテは重度の障害者であるエヴァの妹ヘレーナが家にいるとは知らず、対面することに苦痛を感じる。ヘレーナはしかし母との再会を喜び、うめくような声で「顔を持って、よく見て」と頼む。このことは「顔」こそが真実を明らかにするものであることを示唆している。シャルロッテはしばしば表情を作ってその場を取り繕うとするが、その試みは過去の記憶の充満したこの屋敷という空間においては挫折する。母と娘の口論のシーンは、家庭を顧みることなくコンサートピアニストとして世界を飛び回っていた母親シャルロッテへのエヴァの非難と、それに対するシャルロッテの自己弁護から成り立っている。二人の間の緊張が最も高まった瞬間において、両者は互いに向き合うのではなくカメラの方を向いており、自我を喪失したように宙を見つめるだけの顔面が我々に向けられることになる。エヴァは4歳を直前にして死んだエーリックの記憶に寄り添いながら生きており、彼女のシャルロッテへの言葉は死の世界からのメッセージでもある。二人がカメラを向くシーンにおいて観客に伝えられるのは過去の重みであり、死の気配である。ベルイマンは顔のクローズアップによって過去が顔面のうちに身体化する様子を捉えたのである。