著者
高村 峰生
出版者
ストラータ同人会
雑誌
Strata
巻号頁・発行日
vol.19, pp.115-129, 2005-12-24
著者
高村 峰生
出版者
神戸女学院大学
雑誌
女性学評論 (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.51-69, 2015-03

本論はスウェーデンの映画監督であるイングマール・ベルイマンの『秋のソナタ』(1978)において顔がどのように表現され、映画の時間性と結びついているかを、特に母娘の口論の場面に注目して分析している。序論ではベルイマンのクローズアップの典型例として『不良少女モニカ』(1953)における主人公モニカの顔を捉えたシーンに触れ、この場面が表情の微細な変化に観客の関心を向けさせ、ステレオタイプ化された表情と対立するような顔を持続的な時間のうちに表現していると論じた。このモニカのショットは現在時間の持続を捉えているが、『秋のソナタ』においては過去が重要な意味を持っている。夫を失ったばかりのシャルロッテは娘のエヴァの家を訪問するが、そこでいままで目を背けていた過去と対面させられる。たとえば、シャルロッテは重度の障害者であるエヴァの妹ヘレーナが家にいるとは知らず、対面することに苦痛を感じる。ヘレーナはしかし母との再会を喜び、うめくような声で「顔を持って、よく見て」と頼む。このことは「顔」こそが真実を明らかにするものであることを示唆している。シャルロッテはしばしば表情を作ってその場を取り繕うとするが、その試みは過去の記憶の充満したこの屋敷という空間においては挫折する。母と娘の口論のシーンは、家庭を顧みることなくコンサートピアニストとして世界を飛び回っていた母親シャルロッテへのエヴァの非難と、それに対するシャルロッテの自己弁護から成り立っている。二人の間の緊張が最も高まった瞬間において、両者は互いに向き合うのではなくカメラの方を向いており、自我を喪失したように宙を見つめるだけの顔面が我々に向けられることになる。エヴァは4歳を直前にして死んだエーリックの記憶に寄り添いながら生きており、彼女のシャルロッテへの言葉は死の世界からのメッセージでもある。二人がカメラを向くシーンにおいて観客に伝えられるのは過去の重みであり、死の気配である。ベルイマンは顔のクローズアップによって過去が顔面のうちに身体化する様子を捉えたのである。The essay analyzes the embodiment of past memories in human faces in Ingmar Bergman's Autumn Sonata (1978), with a particular focus on close-up shots in the scene of a ferocious argument between a mother and a daughter.For the sake of critical comparison, the essay begins by introducing a famous close-up shot of the heroine's face in Bergman's earlier work Summer with Monika (1953). While Monika emphasizes the present time through a shot of the title character's intense gaze at the audience, Autumn Sonata demonstrates the tenacity of the past experiences by showing the ways in which the characters' remembrances bring changes to their facial expressions.Set in an enclosed space of a house, Autumn Sonata depicts how the mother Charlotte, who has recently lost her husband, is forced to encounter the unfavorable family history which the daughter Eva incessantly attempts to evoke. Shortly after the mother's arrival at the daughter's home, for example, Eva tells Charlotte that her handicapped sister Helena is living in the same house. This news is unsettling enough for Charlotte to break her habitual artificial smile. Eva has believed that no boundary exists between life and death since her son's premature death, and she herself has been living as if she was half alive, half dead.The intense argument between the mother and the daughter mostly consists of Eva's denunciation of the self-centered mother who traveled around the world as a concert pianist without much concern for her family. At the most intense moment in their argument, their faces are directed in the direction of the camera, exposing their total absence of self through their facial expressions. What are communicated to the audience in the scene are the gravity of the past and the invisible existence of death. Through the close-up shots of the two women's faces, Autumn Sonata captures the mysterious moments in which the past memories and others' deaths seize human faces.
著者
高村 峰生 TAKAMURA Mineo
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum
巻号頁・発行日
vol.29, pp.51-69, 2015-03

本論はスウェーデンの映画監督であるイングマール・ベルイマンの『秋のソナタ』(1978)において顔がどのように表現され、映画の時間性と結びついているかを、特に母娘の口論の場面に注目して分析している。序論ではベルイマンのクローズアップの典型例として『不良少女モニカ』(1953)における主人公モニカの顔を捉えたシーンに触れ、この場面が表情の微細な変化に観客の関心を向けさせ、ステレオタイプ化された表情と対立するような顔を持続的な時間のうちに表現していると論じた。このモニカのショットは現在時間の持続を捉えているが、『秋のソナタ』においては過去が重要な意味を持っている。夫を失ったばかりのシャルロッテは娘のエヴァの家を訪問するが、そこでいままで目を背けていた過去と対面させられる。たとえば、シャルロッテは重度の障害者であるエヴァの妹ヘレーナが家にいるとは知らず、対面することに苦痛を感じる。ヘレーナはしかし母との再会を喜び、うめくような声で「顔を持って、よく見て」と頼む。このことは「顔」こそが真実を明らかにするものであることを示唆している。シャルロッテはしばしば表情を作ってその場を取り繕うとするが、その試みは過去の記憶の充満したこの屋敷という空間においては挫折する。母と娘の口論のシーンは、家庭を顧みることなくコンサートピアニストとして世界を飛び回っていた母親シャルロッテへのエヴァの非難と、それに対するシャルロッテの自己弁護から成り立っている。二人の間の緊張が最も高まった瞬間において、両者は互いに向き合うのではなくカメラの方を向いており、自我を喪失したように宙を見つめるだけの顔面が我々に向けられることになる。エヴァは4歳を直前にして死んだエーリックの記憶に寄り添いながら生きており、彼女のシャルロッテへの言葉は死の世界からのメッセージでもある。二人がカメラを向くシーンにおいて観客に伝えられるのは過去の重みであり、死の気配である。ベルイマンは顔のクローズアップによって過去が顔面のうちに身体化する様子を捉えたのである。
著者
高村 峰生
出版者
東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター
雑誌
アメリカ太平洋研究 (ISSN:13462989)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.95-111, 2009-03

論文Articles本論は、1994 年に発表されたティム・オブライエンの In the Lake of theWoods において、ヴェトナム戦争のトラウマ的記憶が、父親の自死の記憶と撚り合わせられながら、主人公ジョンの人生の様々な局面で噴出するさまを読解し、トラウマと仮構された因果性、及びそれを言語的に構築するナラティブの関係について考察している。オブライエンはこの作品において湖(や、そのアナロジーとしての鏡)を主人公ジョンのトラウマを照射し、彼の世界像を構成するような暴力的な根源として描いているが、本論ではそのような湖=鏡の説話的機能に注目し、作品において示唆される主人公や主人公の妻の湖の方への失踪を反復脅迫的なものと捉えた。湖=鏡は現実を映す表象機能のアレゴリーともなっており、オブライエンは鏡の前で奇術をする行為をフィクションの執筆行為になぞらえている。同様に、ジョンは自分(たち)を狂気から守るために、しばしば得意とする奇術を戦場で披露することで、把握不可能な現実の暴力の巨大さに対し防衛的に額縁を設定し、偽の「理解可能な」暴力の因果性を築きあげようとした。父の自殺は、ジョンをして自殺した父を殺したいという矛盾した欲望を抱かしめる。父という近しい存在の内なる暴力性はジョンの世界観に深く根を張る見えない脅威となるのだ。彼の奇術への傾倒は、シンボリックに父親を殺す行為の想像的な反復であり、ジョンはそれを通じて偶発的で統御不可能な暴力を彼自身の小さな世界の内に閉じ込める。作品において可能性として提示されているジョンによる妻キャシーの殺害というプロットについては、ジョンによるキャシーと父の同一視という解釈を示した。 様々なナラティブによる言語複合体として構成されたこの作品を通じて、オブライエンはトラウマの異種混交性と、フィクションと「現実」の相互浸透性を表現したと言える。