著者
青木 武信 アオキ タケノブ Takenobu AOKI
出版者
総合研究大学院大学
巻号頁・発行日
2001-03-23

本研究の目的はインドネシアの大衆芸能、クトプラ(kethoprak)について、現地調査から得られたデータをもとに、その公演形態、公演内容、および芸人と彼らの社会生活について民族誌的記述を行い、1990年代半ば、スハルト政権最末期のインドネシアにおけるクトプラについて考察するものである。事例としてはジョクジャカルタを中心に活発な公演活動を行っているクトプラ劇団、ペーエス・バユ(PS Bayu)をとりあげる。 クトプラはインドネシア、中部ジャワの大衆芸能であり、笑いとアクションを中心としたドタバタ喜劇である。クトプラは中部ジャワー帯で人気が高く、ジョクジャカルタを中心に各地で公演が行われているが、最近ではテレビでの放映も行われている。 クトプラで演じられる物語の主要なテーマは女性、領土、財物の奪い合いである。クトプラの人気を支えているのは、人々の情動に直に訴えかける通俗性である。この通俗性は自身の欲望に忠実な登場人物の姿に由来する。つまり、クトプラでは誰もが少ながらず持ってはいるが、日常的には抑圧されている欲望が舞台の上で鮮明に提示されるのである。そのために、観客は深い共感をもって観劇を楽しむことになる。 クトプラのもうひとつの特徴は、必ずしも単純ではない物語の筋を簡略化し、格闘シーンや笑いのシーンを適宜挿入しながら、柔軟に舞台を構成してゆくやり方にある。クトプラの芸人たちは、公演地における観客の嗜好を考慮し、かつ観客の反応をみながら、公演内容を臨機応変に組み立ててゆく。格闘シーンは舞台の進行にアクセントをっけ、弛緩した観客の注意を舞台に引き戻す効果をもっている。また、クトプラは笑いのシーンをふんだんに挿入することで、深刻さをさけ、観客に気晴らしの娯楽を提供している。理想と現実との垂離に日常的に直面し、緊張を強いられている観客は、笑いのシーンで、このズレを提示されて、それを笑うのである。 このように、人々の心に潜む欲望を的確にとらえて表現する技術や、観客の舞台に対する反応を鋭敏に感じとり、舞台を柔軟に構成してゆく技術にたけていることが人気クトプラ芸人の条件となっている。こうした能力は彼らの豊富な社会経験に由来する。クトプラの公演が行われる地理的範囲は広く、公演をおこなう機会も多様である。そのために、芸人たちはジョクジャカルタを中心に、中部ジャワの各地を訪れ、さまざまな人々と接触し、見聞を広め、広範な人的なネットワークを構築する。これらのことがクトプラ芸人の演技者や演出者としての能力を培っているのである。 こうした能力は舞台の外でもきわめて重要な役割を果たしている。このことを示す端的な例はペーエス゜バユの座長であるギトとガテイである。彼らは舞台の上で卑猥で低劣なジョークを連発し、ドタバタ喜劇を演じる。だが、舞台の外では強い倫理観を持った好人物とみなされている。こうした舞台の上でのパフォーマンスと非常にかけ離れた人物像は舞台外での芸人の「演技」から作られるところが大きい。彼らは、人に何を期待され、何が求められているかを鋭敏に感じとり、それを舞台の外においても自身の「演技」に生かしているのである。 そして実際に、ギトとガティは地域社会において名士やリーダーとしての役割を期待され、そうした期待にこたえている。また、ガティは集落長という公職についている。ギトとガティが居を構えている集落にすむ村人の大多数はあまり裕福とはいえない農民である。彼らは、何らかの事情で、まとまった額の現金を必要とする場合、ギトやガティのもとを訪れることが多い。あるときは、手持ちの装飾品などを質草にして現金を借り、またあるときは、所有する農地や水田を彼らに買ってもらう。これに加え、集落が共同で使用する水場の新設や整備、共同墓地の拡張、道路の舗装、青年団の活動などに際しても、ギトとガティは経済的援助を求められる。 こうした期待と要求に応えることは、とかくマイナスのイメージを付与されがちな芸人という存在が地域社会で生活していく上で、必要に迫られて行っている戦術ともいえる。たしかに、仮設の小屋掛けでおこなう巡回公演を中心とするクリリガンと呼ばれるクトプラ劇団の芸人の生活は、売春まがいの行為をおこなう等の理由から、ジャワ人の一般的倫理観から大きくずれている。そうしたこともあり、ギトとガティは自己の社会的イメージを大変重視している。それは人気クトプラ劇団のリーダーであり、ジャワ芸能界の人気者にして重鎮、かつ温厚で、人当たりのよい人物というイメージである。彼らはジャワ社会における期待されている人物像を舞台の外で演じているといってよい。 以上のように、ギトとガティがになう役割と彼らの行為を見てくると、彼らは地域社会(村)とその外にあるジャワ社会を結びつけ、情報、金銭、人的コネクションを地域社会にもちこむ存在だということである。ジャワ社会でトコ・マシャラ力(tokoh masyarakat)と呼ばれる地域社会における名士あるいはリーダー的存在にはさまざまな種類の人物がいる。それは篤農家であったり、宗教的指導者であったり、富裕な商人であったりする。ギトとガティはこうした多様なトコ・マシャラカの一例なのである。 ギトとガティは政治的、宗教的に特定の勢力と深く関係することなく、中立的な立場を保持してきた。そうすることが多方面からの公演依頼を可能にすると判断したためである。だが、クトプラ芸人のなかには公演依頼を増やすために、積極的に特定の政治団体、特にスハルト政権下の与党、ゴルカル党に参加し、活動を行う者もいた。ギトとガティの場合にもいえることだが、芸人たちは生き残りをかけて、ときには利用できるものは何でも利用するしたたかさを顕わにする。そのとき、芸人は豊富な経験に裏打ちされた彼ら独特の「嗅覚」あるいは現実的感覚を大いに働かせているのである。こうした生々しい現実的感覚をもつからこそ、クトプラ芸人はジャワ社会の変化に巧みに適応しながら、クトプラの人気を長きにわたり保持しつづけることができたのだと考えられる。 そして、1990年代、テレビの普及と並行してジャワ社会は大きく変化してきている。ペーエス・バユの公演活動から、こうした変化へ適応していく様子を窺うことができる。公演は儀礼的な要素が小さくなり、娯楽としての要素が中心となってきた。公演機会も村清めのようなジャワ固有の信仰に基づくものは少なく、インドネシアの独立記念日を祝う催しやムスリムが断食月明けを祝うサワラン儀礼が多くなっている。公演日の選択にあたっても、ジャワ暦よりも土日を優先するようになっている。舞台の内容も笑いとアクションの要素を強調する傾向にあり、漫才のみの公演も増えている。公演機会や公演内容はよりいっそう世俗化し、インドネシア化しつつある。その一方でテレビを通じてクトプラはジャワ王朝時代劇としてイメージを鮮明にしている。また、ムスリムにとって聖なる月である断食月と儀礼には適さないとされているジャワ暦のポソ月は、公演機会として現在でも避けられている。このように完全に世俗化し、ジャワ的なものがインドネシア的なものに置き換わってしまっているわけではない。1990年代の現代インドネシアにおいて、ジャワとインドネシアの間でクトプラ芸人は巧みに両者の要素を取り入れ、使い分け、生き残ろうと努めている。