著者
William McOmie ウイリアム マコウミ
出版者
神奈川大学人文学研究所
雑誌
人文学研究所報 = Bulletin of the Institute for Humanities Research (ISSN:02877082)
巻号頁・発行日
no.45, pp.23-43, 2011-03-25

本稿は,アヘン戦争の後1842年からの東アジアにおける激しく変化する国際状況の中で,西洋人の日本観の変容について論じます。日本は古くから中国の文明と密接に交流しており,中国がイギリスの軍事力によって敗北,香港などの港を開かされると,日本もいずれ西洋の国々に港を開くことを避けられなくなるだろうと広く思われました。一番に議論されたのは,その開き方が戦争によるか,または平和的におこるかということでした。そして,1844年オランダ王Willem II が初めて将軍徳川家慶宛に手紙を書き,出島にあるオランダ商館長を通して江戸に転送してもらいました。オランダ王は日本対イギリス,アメリカなど軍事力が強い国の間と戦争が簡単に起こりえるという事を恐れ,将軍に昔からの「鎖国」の方針を止め,日本の港をすべての国との貿易に開くように熱心に呼びかけました。 その後1845年春にアメリカの捕鯨船マンハッタン号は22人の日本人漂流民を乗せて,浦賀沖に停泊しました。老中主席阿部正弘の特別評価のおかげで,漂流民は日本の役人たちに引き渡されました。ただし,アメリカの捕鯨船は日本の小舟に囲まれ,アメリカ人の乗組員は船長も含め船から降りることは固く禁止されました。しかし,船長とその乗組員はわずか4日間の滞在中,日本人の役人と友好的に交流し,お互いに人間として知り合いました。船長はアメリカ人の親切さとアメリカの日本に対する友好的態度を見せ,日本の文明や日本人の礼義正しいことを高く評価しました。 翌年1846年夏,アメリカの軍艦2隻がまた浦賀沖に停泊し,すぐに日本の小舟に囲まれ,9日間の滞在中アメリカ人たちは船から降りることは許されませんでした。しかし,日本人の役人や船人が大勢軍艦に乗り込み,アメリカ人の少年ノードホッフは良く観察して,日本人の見かけ,性格,風俗,衣服,食事等についての詳しい記録を残しました。これはアメリカ人による初めての詳しい記録です。 このふたつの記録は,日本語と日本文化に対する知識不足や当時の日本の鎖国による制限があるにもかかわらず,近代化の前夜の日本について,興味深く重要な事柄を残しています。幕末日本に訪問したアメリカ人の日本に対する観点を一言で要約すると,「友好的な民族で,非友好的な法律」と言えるでしょう。