言及状況

外部データベース (DOI)

Twitter (9 users, 28 posts, 17 favorites)

@26_N_1288 黒田曻義「当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」に当時の古老から聞いた話として、そんな出来事が書かれています
元亨釈書の実範の項です。実範が見た夢の話も出てきます。https://t.co/ABzeH9fWAz(32-33) 黒田曻義「当尾と柳生の寺々 - 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他 -」関西急行鉄道でその内容が現代文に翻訳されています。https://t.co/JOdkuMRsE2 https://t.co/fJFJ5N2Kgm
黒田曻義 著「当尾と柳生の寺々:浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」昭和18年関西急行鉄道刊を見ていたら、浄瑠璃寺奥之院の不動明王は下半身しかないと書かれていました。https://t.co/m6lTIaYHwk https://t.co/z2CyNWBkni
なぜかといえば、実範が唐招提寺を再興したと伝わっているからです。中川寺開山後、実範は唐招提寺から中川寺へ樋を伝って清水が流れてくる夢を見て唐招提寺へ戒律を学びに行くのですが、境内は田畑となっていてそこにはお爺さんがいるばかり、、というお話が残っています。https://t.co/xkRjHGFerh https://t.co/qlURsoy0R1
先ほどのサイトで黒田曻義「当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」に明治40年ごろの円成寺多宝塔の状態がわかる記述があることが紹介されていました。もうボロボロで大正初年には取り壊されたとのこと。https://t.co/SAWR3BUjXI「上層は軸部だけで壊れかけた臨時の屋根が架けてあった」 https://t.co/kSINseUDxo
この実範上人御廟塔、大正13年には奈良まで運び出され、危うく転売されそうになったと言いますから驚きです
実範上人御廟塔は実は実範上人のお墓かどうかわかっていません。五輪塔は鎌倉時代のもので、実範の没年と整合しないことから、もしこの五輪塔がお墓だとすれば、光明山寺(江戸期までに廃絶・蟹満寺近くの山中にあった)で没して百年後ぐらいに分骨したものかと言われます。https://t.co/R2MsP1MVvX https://t.co/ZWXU2F65No
どこかで見た話だなあと思ったら、たぶんこれが元ネタですね。文体は変えてあるものの共通するところが多いので、おそらくこれを参照しているものと思います。でも斧峠という地名は出て来ません…。 http://t.co/JcYEe0ctjD http://t.co/YiL1TIdiEh
実範上人御廟塔。黒田曻義著「当尾と柳生の寺々」によると大正13年「末法の徒輩」によって奈良まで運ばれ売られそうになったそうで、元に戻されたものの元々の位置がここかどうかはわからないようです。http://t.co/SWFPgKvb7l http://t.co/4W0pyZ8YZ1
ちなみに、浄瑠璃寺の本堂前の池の端に置かれているこの水盤は「とにかく珍しいもの」なんだそうです。ほうほう。http://t.co/sa4wsw1Na4 http://t.co/Adl62oECkf
昭和18年のこの略地図には現在ある浄瑠璃寺と岩船寺を結ぶ車道が書かれていませんね。唐臼の壷を通る道しか書かれていません。あの道ができたのは戦後なのか。。。>http://t.co/dUMXnAxBig http://t.co/29X1EMURLp
東里村史の中川寺に関する記述はほぼ全部この本の引用でした。巻頭言を読むとこれが出版されたのがたいへんな時代だったことを思い起こさせます…。>当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他 http://t.co/bikqeBgDzJ
簡単な地図(昭18)もありました。これを見ると弥勒の辻から笠置寺までは谷沿いの集落をたどるかんじですね。中ノ川から鶯の滝を経て春日大社に下りる道もやっぱり書いてあります♪>当尾と柳生の寺々 http://t.co/dUMXnAxBig http://t.co/29X1EMURLp
京都と奈良の県境となっている道は「笠置街道」みたいです。弥勒の道=笠置街道。>近代デジタルライブラリー - 当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他 http://t.co/qK9TZjRity 「…中川寺址、浄瑠璃寺、岩船寺は笠置街道沿ひに…」

収集済み URL リスト