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西村貞「奈良の石仏」昭18で、ミロクの辻弥勒磨崖仏が紹介されているのですが、「尊像のかたはらにある雑木の類には、草履をくくりつけて賽してある」と書かれています。そういう光景は見たことがないのですが、昔は引用先のように、草履がくくりつけてあったのかも。https://t.co/C6exESAmET https://t.co/oA14jP8vUJ https://t.co/w5lrKul6ml
みろくの辻弥勒磨崖仏は昔「足の神さん」と呼ばれていて、草鞋や杖などがお供えされていたという話が「加茂の昔話」に載ってるんですが、同様の話が他のどこにも載ってないので本当かなと訝しく思っていました。ところが昭和18年の本に草鞋がぶら下げられているとの記述が
柳生を経て笠置へ続く滝坂の道に弥勒如来を刻ませた璋円僧都が、笠置寺を再興した貞慶上人の弟子だったというのは、確かに興味深いです。あと「奈良の石仏」の図版に、当尾にあるミロクの辻弥勒磨崖仏の拓影があったんですが、お顔がちゃんとあって驚きました
春日御流記に、南都焼討後の大仏殿再興にあたり、石材の多くが地獄谷の山中から切り出されたので、興福寺の璋円僧都が、霊地として路傍大小の石に諸仏を刻んで衆人に結縁せしめたとあるそうです(西村貞「奈良の石仏」昭和18 https://t.co/AX2G5kKSeB )。朝日・夕日観音はその諸仏だろうとのこと。 https://t.co/wXwrP4haEW
西村貞「奈良の石仏」に、若草山の地蔵石仏が元どこにあったか書かれているとのことでしたので、国会図書館デジタルコレクションで探してみました。一説によると、興福寺貫主の大西良慶師が幼時大患を患い地蔵菩薩に救われたので、大金を投じて現在地へ運び出したのだとか。https://t.co/3AzzrjEglm https://t.co/GHvAF9Ikgv

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