著者
辻善之助 編
出版者
三教書院
巻号頁・発行日
vol.第11巻 尋尊大僧正記 163-188, 1936

言及状況

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『出兵自体をやめろ』と言う内容ではありませんが、文禄の役に際して、秀吉自身が朝鮮に行く事を後陽成天皇が止めようとしました。 秀吉自身の渡海に反対したのは、後陽成天皇だけではなく、むしろ徳川家康や前田利家などの有力大名が反対したから、と言うのが当時の武士達の中の一般的な理解だったようですが、『自分が言っても、全く無駄って事は無い』と後陽成天皇も思っていたから、言ったのでしょうね。 ただ、天皇の言 ...
朝廷は幕府の庇護なしに生きて行けなかったのだから、仕方ないですよ。特定の勢力と結びつくよりもむしろ、実力で京都近辺を勢力下に入れた者が担ぐ将軍家の一人を、淡々と将軍にして行った方が、政治的に常にニュートラルで安全かも知れません。下手に誰かに肩入れすると、その誰かに対抗している者が勝ったら、別の皇族を天皇にされるかも知れないですからね… 地頭が荘園・国衙領で集めた年貢を荘園領主や国司に収めない ...
まず、(中身はひとまず後にして)織田信長は、朱印に用いた印章の印文として『天下布武』を使ったのは御存知ですよね。岐阜を手に入れた直後ぐらいから使っています。この段階の『天下布武』は、足利義稙を担いで京都に入った大内義興と大して変わらないでしょうね。京都に入った信長が、足利義昭を擁立する形を暫くとったのも、その為でしょうね。 が、織田信長はそれで目標達成とは思わなかったから、武田氏を滅ぼしたり ...
程度の問題ですね。 他の方の回答にある一条家の中には土佐に土着した例があった、と言うのは見方を変えれば、土佐の所領は維持されたって事でもあります。元関白九条政基には所領の和泉国日根荘に住んで荘園管理の実務を自ら行った時期があり、かつての摂政関白からしたら思い切り情けない状態ですが、それでも応仁の乱から二十数年経った時点でも守るべき所領は残っていた、って事に他なりません。 摂関家の様に地 ...
仰りたいのは、『天皇から征夷大将軍と言う役職を与えられた事が、支配者としての正統性の源であるはず。天皇の権威を貶めるのは自己矛盾』って事ですよね? 幕府と朝廷の間の緊張関係がほぼ解けたのは家光の頃です。徳川家康は後陽成天皇の後継を誰にするかにも介入していますが、後で申し上げる様にこれはまだ慣習に背いていない方で、紫衣事件は天皇の勅許を後で幕府が否定したもので、それも僧侶に権威付けをしてやると ...
>征夷大将軍は帝の命を受けて就任するはずです。 >源氏は天皇の臣下ですから。 まぁ、形式って言うか外見は確かにそうではありますが、実際には『天下の実権を握る者は天皇に指図出来る』と考えられていたからこそ、実際に指図した訳でして… >諸国大名はそこまで家康に隷従したのでしょうか。 むむ?家康が天皇に指図したのを各大名は文句を言わなかったのは家康には逆らえないからで実は嫌々だ ...

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