著者
岩本 侑一郎
出版者
富山大学比較文学会
雑誌
富大比較文学
巻号頁・発行日
vol.9, pp.143-155, 2017-03-10

カレル・チャペック『R.U.R』から多くのロボットが多様な媒体の作品で描かれてきた。その中で度々出てくるのが美しい女性型のロボットである。人に似せてロボットを作る以上どちらかの性別に外見が寄せられるのは不思議なことでは無い。しかしロボットに美しい女性の外見を与えることは、本来性別のないロボットに性別という属性を意識して付け加えていると言えるだろう。ロボットを美しい女性として扱うというのは文学史上何度も繰り返されていると同時に矛盾をはらんだことでもあるのだ。ロボットに与えられた性別をどう捉えるかというのは今でも解決していない問題である。例を挙げると、二〇一四年一月号『人工知能』の表紙に掃除をする女性型ロボットが描かれ物議をかもした。掃除をする女性ロボットは「女性蔑視」であるという批判が出たのである。人に使役される存在というイメージのあるロボットと男性に従属的というステレオタイプな女性観が重なったことが批判の発端であると思われる。現代において美しい女性型ロボットは実用的かはともかくとして実現可能な領域に踏み込んでいる。近い未来そのようなロボットが一般的なものになった時、彼らの性別についてどう向き合うべきなのか。それを考えるうえで、今まで多様な媒体の作品で描かれてきたロボットの在り方を追うことは有用な材料となるだろう。本稿ではこのロボットと性の問題について、おそらく最初にこの問題に踏み込んだ作品である海野十三の「十八時の音楽浴」を起点として論じていこうと思う。

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