著者
熊谷 隆之
出版者
越中史壇会
雑誌
富山史壇 (ISSN:02880458)
巻号頁・発行日
vol.168, pp.1-12, 2012-07

日本中世、なかでも鎌倉期の列島社会は、首都京都に加え、鎌倉という、もうひとつの政治都市をもつにいたる。結果、当該期には、古代以来の五畿七道とともに、それに対応した地域区分が生出する。《東国》と《西国》である。かねて筆者は、列島を「東国」「北国」「畿内近国」「鎮西」に区分し、関東・六波羅・博多などの広域支配機関と守護による列島支配を基軸とした鎌倉幕府の通史叙述を試みた(以下「旧稿」)。「東国」は、東海・東山道の遠江・信濃国以東の一五ヶ国、「北国」は北陸道である。だが、この区分は、のちの関東・六波羅の軍事・裁判管轄でいう《東国》《西国》に一致しない。とりわけ齟齬が顕著なのは、「北国」である。《東国》《西国》の区分は、鎌倉幕府支配の多様な問題と連関する。たとえば、文治国地頭の設置範囲である。全国説、畿内・山陰・山陽・南海・西海道三六ヶ国説、「北国」「畿内近国」「鎮西」四六ヶ国説、国地頭不設置説など、なお定論をえていない。他方、旧稿では、鎌倉幕府の「東国」支配を、守護不設置を基調としたと評価し、また、別稿でふれたように、当初、「北国」も守護不設置だった可能性が残る。文治国地頭と守護の設置範囲に、関係はあるのか。「北国」では、どうなのか。そして、承久の乱を経て、若狭・越前・加賀国は六波羅管国の《西国》、能登・越中・越後・佐渡国は関東管下の《東国》となる。「北国」は、いかなる過程で東西へと分かれゆくのか。「北国」内の地域的偏差を、守護の存在形態を規矩に測定する。本稿の目的である。

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