11 0 0 0 OA 六波羅探題考

著者
熊谷 隆之
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.113, no.7, pp.1262-1284, 2004-07-20 (Released:2017-12-01)

The present article is an attempt to open a new line of discussion about the Kamakura Bakufu's functionary in Kyoto, the Rokuhara Tandai 六波羅探題, beginning with an examination of the term itself and a clarification of the context in which the position was placed.The term "tandai" indicated the highest ranking jurist in Kamakura, Rokuhara and Hakata ; however, it was by no means widely used during the period. At the time, the Kyoto functionary's post was described using such terms as shugo 守護 (protector, military governor) and kanrei 管領 (overseer, administrator). It was only during the Edo period that we find the term "Rokuhara Tandai" in a reference work entitled Buke Myomoku-Sho 武家名目抄 compiled by Hanawa Hokiichi 塙保己一. Given the above facts, the history of the Rokuhara Tandai may be laid out as follows. The post of "Rokuhara Tandai" was established in 1221 as the shugo of Kyoto, the imperial capital. Later, as the actual administrative structure of the office was set up, its executive officer came to occupy the position of kanrei. It was the judicial aspect of this administration that the Rokuhara functionary took on role of a tandai. Furthermore, the research to date has considered Rokuhara as a place secondary to the shogun's main residence in Kamakura. However, there is plenty of room for considering Rokuhara as the shogun's main or original residence. For example, the Lord of Kamakura (kamakura-dono 鎌倉殿) was originally dispatched by the emperor from Kyoto to Kamakura in the capacity of Shogun (seiitaishogun 征夷大将軍), and during the Kamakura period the term "buke" 武家 (the shogun and his entourage) referred geographically to Rokuhara, not Kamakura, thus making it impossible to consider "Rokuhara Tandai" on the same level as "Chinzei Tandai 鎮西探題, the Bakufu-appointed functionary in Hakata. During the late Kamakura period, when the Bakufu's control over western Japan became part of the pluralistic system of elites, including the aristocracy and religious institutions (kenmontaisei 権門体制), it was Rokuhara that represented the Bakufu in that system. In this sense, one could very well argue that Rokuhara existed as the headquarters of the Bakufu. The possibilities offered by the above discussion rest for the most part on the place and influence that Buke Myomoku-Sho has and will have in the historical study of the Kamakura period.
著者
熊谷 隆之
出版者
日本史研究会
雑誌
日本史研究 (ISSN:03868850)
巻号頁・発行日
vol.586, pp.1-19, 2011-06
著者
熊谷 隆之
出版者
日本史研究会
雑誌
日本史研究 (ISSN:03868850)
巻号頁・発行日
vol.611, pp.1-17, 2013-07

得宗専制という、鎌倉期政治史の重要問題を論じるにさきだち、ひとりの、著名とはいえぬ人物を取りあげたい。北条経時・時頼の同母弟たる、北条(阿蘇)時定。のちに「為時」と改名する。北条経時・時頼の同母弟たる時定は、文永の役のころ、なぜ鎮西にいると、都人に認識されていたのか。あるいは、本当に、鎮西にいたのか。本稿は、阿蘇時定あらため「為時」と、のちほど登場する北条(苅田)時継こと、もうひとりの「為時」について検討し、そこから浮上する新事実をもとに、得宗専制に関するいくつかの論点の提示を試みるものである。
著者
熊谷 隆之
出版者
越中史壇会
雑誌
富山史壇 (ISSN:02880458)
巻号頁・発行日
no.181, pp.1-9, 2016-11

斯波宗家は、足利泰氏の庶長子たる足利(斯波)家氏の嫡男で、斯波氏の第二代である。父家氏は『吾妻鏡』に将軍の近習として散見するものの、同書の記事は、文永三年(―二六六)までしか残らず、鎌倉後期の斯波氏については、茫漠たる状況にある。そんななか、本稿で着目するのは、越中国岡成名(高岡市街地の北西、小矢部川の右岸、旧西条村の一帯)である。鎌倉末期の岡成名に関する関東裁許状二通には、斯波宗家とその嫡子斯波宗氏が登場する。これらの史料じたいは、すでに利用され、よく知られるものである。だが、おって述べるごとく、宗家をめぐる先学の理解には、いくつかの誤認がみられ、まずは、それらの混乱を整序する必要がある。本稿は、岡成名をめぐる考察を糸口に、鎌倉後期幕府政治史の一側面の提示を試みるものである。
著者
熊谷 隆之
出版者
立命館大学人文学会
雑誌
立命館文學 (ISSN:02877015)
巻号頁・発行日
vol.624, pp.675-684, 2012-01

鎌倉幕府文書は、関東・六波羅・博多発給文書に大別でき、それぞれは下文様文書と書札様文書からなる。関東発給文書の場合、下文様文書は概して下文と下知状に分かたれ、その主たる用途は補任宛行・安堵・裁許である。時期を下るにつれて、下文の用途は補任宛行・安堵に限定される一方、下知状は補任宛行・安堵とともに、裁許にも用いられることになる。これまで関東発給の下知状は、関東下知状として一括して把握されてきた。ところが、鎌倉期をつうじて分析してみると、下知状は、当初、五つの様式からなり、時期を下るにつれ、二つの様式に確立したことが判明する。そのうえで、下知状の主たる用途である補任宛行・安堵・裁許に着目し、それらを俯瞰しなおすことで、従来とはややおもむきを異にする下文様文書の総体的な輪郭が浮き彫りになるとともに、鎌倉幕府の安堵と裁許をめぐる新たな論点が浮上することになるだろう。
著者
熊谷 隆之
出版者
越中史壇会
雑誌
富山史壇 (ISSN:02880458)
巻号頁・発行日
vol.168, pp.72-72, 2012-07
著者
熊谷 隆之
出版者
越中史壇会
雑誌
富山史壇 (ISSN:02880458)
巻号頁・発行日
vol.168, pp.1-12, 2012-07

日本中世、なかでも鎌倉期の列島社会は、首都京都に加え、鎌倉という、もうひとつの政治都市をもつにいたる。結果、当該期には、古代以来の五畿七道とともに、それに対応した地域区分が生出する。《東国》と《西国》である。かねて筆者は、列島を「東国」「北国」「畿内近国」「鎮西」に区分し、関東・六波羅・博多などの広域支配機関と守護による列島支配を基軸とした鎌倉幕府の通史叙述を試みた(以下「旧稿」)。「東国」は、東海・東山道の遠江・信濃国以東の一五ヶ国、「北国」は北陸道である。だが、この区分は、のちの関東・六波羅の軍事・裁判管轄でいう《東国》《西国》に一致しない。とりわけ齟齬が顕著なのは、「北国」である。《東国》《西国》の区分は、鎌倉幕府支配の多様な問題と連関する。たとえば、文治国地頭の設置範囲である。全国説、畿内・山陰・山陽・南海・西海道三六ヶ国説、「北国」「畿内近国」「鎮西」四六ヶ国説、国地頭不設置説など、なお定論をえていない。他方、旧稿では、鎌倉幕府の「東国」支配を、守護不設置を基調としたと評価し、また、別稿でふれたように、当初、「北国」も守護不設置だった可能性が残る。文治国地頭と守護の設置範囲に、関係はあるのか。「北国」では、どうなのか。そして、承久の乱を経て、若狭・越前・加賀国は六波羅管国の《西国》、能登・越中・越後・佐渡国は関東管下の《東国》となる。「北国」は、いかなる過程で東西へと分かれゆくのか。「北国」内の地域的偏差を、守護の存在形態を規矩に測定する。本稿の目的である。
著者
熊谷 隆之
出版者
越中史壇会
雑誌
富山史壇 (ISSN:02880458)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.1-9, 2016

斯波宗家は、足利泰氏の庶長子たる足利(斯波)家氏の嫡男で、斯波氏の第二代である。父家氏は『吾妻鏡』に将軍の近習として散見するものの、同書の記事は、文永三年(―二六六)までしか残らず、鎌倉後期の斯波氏については、茫漠たる状況にある。そんななか、本稿で着目するのは、越中国岡成名(高岡市街地の北西、小矢部川の右岸、旧西条村の一帯)である。鎌倉末期の岡成名に関する関東裁許状二通には、斯波宗家とその嫡子斯波宗氏が登場する。これらの史料じたいは、すでに利用され、よく知られるものである。だが、おって述べるごとく、宗家をめぐる先学の理解には、いくつかの誤認がみられ、まずは、それらの混乱を整序する必要がある。本稿は、岡成名をめぐる考察を糸口に、鎌倉後期幕府政治史の一側面の提示を試みるものである。