著者
八木 久仁子
出版者
関西大学大学院人間健康研究科院生協議会
雑誌
人間健康研究科論集 (ISSN:24338699)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-49, 2018-03-30

昭和20年代、終戦後の日本に数年間「女子プロ野球」なるものが存在した。敗戦の虚無感と貧困にあえぐ混迷の中、人々は憂さを晴らし安直に快感を味わえる新しい娯楽を求め、スポーツに希望を見出した。なかでもGHQ の民主化政策により後押しされた野球はいち早く復興を果たし、人々は野球に熱狂した。この戦後の新しい娯楽を求める世相に野球熱が高まり誕生したのが「女子プロ野球」である。女性解放の波に乗り社会に進出したアプレゲール(戦後派)女性たちは「女子プロ野球」に新しい女性の生き方としての期待を寄せていた。昭和22年横浜から始まった「拙い女子野球」は、男女平等の民主的で新しい時代を予感させるものだった。これをうけて健康で明るい娯楽として女子プロ野球チームが相次いで創設され、容姿端麗な女性による野球興行はショー的演出も盛り込み男性ファンに歓迎された。選手は野球のできるコンパニオンとして遠征先で地元名士との交歓に励み人気を博した。初めこそマスコミにもてはやされ、昭和25年のピーク時にはチーム数が30近くにまで膨れ上がった女子プロ野球であったが、野球そのものの実力が低く、ほどなく飽きられると興行収入はがた落ち、経営基盤が脆弱な球団は数カ月もたずに解散してしまった。残ったチームは昭和27 年ノンプロ野球に転換して、選手は親会社の社員となり女子野球は企業の「動くPR部隊」として昭和30年代を生き延びた。しかし昭和40年代、男子プロ野球人気が劇的に高まったのとは対照的に、女子野球は徐々に衰退していった。日本経済の巨大化とともに企業スポーツも高度化し、企業のビジネス観でスポーツの価値が測られるようになると、女子野球はTV 時代の広告塔としての価値が無いものと判断されてしまったのである。また産業構造が変化し豊かになった家庭では女性の専業主婦志向が高まり、競技を続ける女性には実業団ソフトボールへと進む途が確立したからである。

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編集者: Yapontsy
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