著者
大辻 新恭 小田 伸午
出版者
関西大学大学院人間健康研究科院生協議会
雑誌
人間健康研究科論集 (ISSN:24338699)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.59-73, 2019

柔道は古来の武術と競技スポーツという二つの側面が保持されていたはずであったが、その普及に伴い柔道の競技的側面が肥大化した。その結果、現代柔道にはその指導理念、指導方法において武術性という視点とその応用が欠落していったのではないかと考えられる。そこで、本研究では、現代柔道における武術性の意味を、当身技に焦点を当て、それが武術性からこれまでどのように解釈され、扱われてきたのかを明らかにしたうえで、学校教育にどのように導入すべきかを提案することを目的とした。その結果、柔道における武術性は技術の捉え方をめぐる問題が存在すると考える。嘉納治五郎は柔術のとりわけ殺傷性が高い当身技といった技術を形で学ぶことで、安全性を確保しながらも、武術性を社会生活につながるための精神修養として捉え、教育としての柔道を確立しようとしたことにある。一方で、現代柔道に受け継がれた武術性は、特に学校管理下における教育としてその道徳的価値ばかり強調される。このことは、学校体育で武道が必修化された背景において、日本における伝統文化として武道を学ぶところに教育的意味があると考えられているからであろう。上記を踏まえて、当身技を形として中学校体育における柔道に取り込むことによって、現代では失われつつある柔道における武術性を学習することが可能になると考察した。
著者
八木 久仁子
出版者
関西大学大学院人間健康研究科院生協議会
雑誌
人間健康研究科論集 (ISSN:24338699)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-49, 2018-03-30

昭和20年代、終戦後の日本に数年間「女子プロ野球」なるものが存在した。敗戦の虚無感と貧困にあえぐ混迷の中、人々は憂さを晴らし安直に快感を味わえる新しい娯楽を求め、スポーツに希望を見出した。なかでもGHQ の民主化政策により後押しされた野球はいち早く復興を果たし、人々は野球に熱狂した。この戦後の新しい娯楽を求める世相に野球熱が高まり誕生したのが「女子プロ野球」である。女性解放の波に乗り社会に進出したアプレゲール(戦後派)女性たちは「女子プロ野球」に新しい女性の生き方としての期待を寄せていた。昭和22年横浜から始まった「拙い女子野球」は、男女平等の民主的で新しい時代を予感させるものだった。これをうけて健康で明るい娯楽として女子プロ野球チームが相次いで創設され、容姿端麗な女性による野球興行はショー的演出も盛り込み男性ファンに歓迎された。選手は野球のできるコンパニオンとして遠征先で地元名士との交歓に励み人気を博した。初めこそマスコミにもてはやされ、昭和25年のピーク時にはチーム数が30近くにまで膨れ上がった女子プロ野球であったが、野球そのものの実力が低く、ほどなく飽きられると興行収入はがた落ち、経営基盤が脆弱な球団は数カ月もたずに解散してしまった。残ったチームは昭和27 年ノンプロ野球に転換して、選手は親会社の社員となり女子野球は企業の「動くPR部隊」として昭和30年代を生き延びた。しかし昭和40年代、男子プロ野球人気が劇的に高まったのとは対照的に、女子野球は徐々に衰退していった。日本経済の巨大化とともに企業スポーツも高度化し、企業のビジネス観でスポーツの価値が測られるようになると、女子野球はTV 時代の広告塔としての価値が無いものと判断されてしまったのである。また産業構造が変化し豊かになった家庭では女性の専業主婦志向が高まり、競技を続ける女性には実業団ソフトボールへと進む途が確立したからである。After the World War II, a women's professional baseball league was founded in Japan. In those days, most of Japanese suffered from poverty and absent-mindedness, therefore they demanded cheap and make-do amusements. They enjoyed excitement from sports, especially from baseball. The "après-guerre" girls had hope in baseball and their future. However, the expectations of the manager side who began Japanese women's professional baseball league as business were not the same things as players. The first Japanese women's baseball game played as spectator sports was performed by the dancers of Ginza in 1947. The game became the reputation, so that the manager gathered high-school girls and ex- high-school girls to make another team, then to make a league. The selection standard of the player in the league was good looks, not the good skills. The number of the teams swelled to nearly 30 in the peak of 1950. Most teams were located in urban area, but they did a play often in a district. At the beginning, women's professional baseball praised by the media, but has been got tired soon because of the players' low skills. The box-office proceeds fell rapidly, and the baseball team where a management base was weak was dissolved for several months. The team left switched it to non-professional in 1952. Japanese women's baseball teams survived over a decade as a PR troopers of the sponsor company. Popularity of the men's professional baseball increased dramatically for the TV era in the second half of 1960's. To the contrary, the women's baseball gradually disappeared. It has been judged that the women's baseball did not have the value as the advertising tower of the TV era. The full-time homemaker intention of the woman so increased that they thought it was desirable to play softball, which was considered more feminine than baseball.
著者
八木 久仁子
出版者
関西大学大学院人間健康研究科院生協議会
雑誌
人間健康研究科論集 (ISSN:24338699)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-49, 2018-03-30

昭和20年代、終戦後の日本に数年間「女子プロ野球」なるものが存在した。敗戦の虚無感と貧困にあえぐ混迷の中、人々は憂さを晴らし安直に快感を味わえる新しい娯楽を求め、スポーツに希望を見出した。なかでもGHQ の民主化政策により後押しされた野球はいち早く復興を果たし、人々は野球に熱狂した。この戦後の新しい娯楽を求める世相に野球熱が高まり誕生したのが「女子プロ野球」である。女性解放の波に乗り社会に進出したアプレゲール(戦後派)女性たちは「女子プロ野球」に新しい女性の生き方としての期待を寄せていた。昭和22年横浜から始まった「拙い女子野球」は、男女平等の民主的で新しい時代を予感させるものだった。これをうけて健康で明るい娯楽として女子プロ野球チームが相次いで創設され、容姿端麗な女性による野球興行はショー的演出も盛り込み男性ファンに歓迎された。選手は野球のできるコンパニオンとして遠征先で地元名士との交歓に励み人気を博した。初めこそマスコミにもてはやされ、昭和25年のピーク時にはチーム数が30近くにまで膨れ上がった女子プロ野球であったが、野球そのものの実力が低く、ほどなく飽きられると興行収入はがた落ち、経営基盤が脆弱な球団は数カ月もたずに解散してしまった。残ったチームは昭和27 年ノンプロ野球に転換して、選手は親会社の社員となり女子野球は企業の「動くPR部隊」として昭和30年代を生き延びた。しかし昭和40年代、男子プロ野球人気が劇的に高まったのとは対照的に、女子野球は徐々に衰退していった。日本経済の巨大化とともに企業スポーツも高度化し、企業のビジネス観でスポーツの価値が測られるようになると、女子野球はTV 時代の広告塔としての価値が無いものと判断されてしまったのである。また産業構造が変化し豊かになった家庭では女性の専業主婦志向が高まり、競技を続ける女性には実業団ソフトボールへと進む途が確立したからである。