著者
松尾 剛次
出版者
山形大学大学院社会文化システム研究科
雑誌
山形大学大学院社会文化システム研究科紀要 = Bulletin of Graduate School of Social & Cultural Systems at Yamagata University
巻号頁・発行日
vol.1, pp.256-246, 2005-03-31

羽黒山といえば、月山・羽黒山・湯殿山とともに出羽三山を構成する修験の山として知られている。すなわち、山岳修験の霊場としてイメージされる。こうしたイメージは、戸川安章・岩鼻通明氏らによる近世を中心とした民俗学的・地理学的成果によって形成されてきた。他方、伊藤清郎氏らの歴史学的研究は、八宗兼学の地方有力学問寺院としての姿に光を当てた。ようするに、羽黒山寂光寺は、一方では修験の寺として、他方は、僧位・僧官を有する官僧の住む学問寺としての羽黒山に注目している。前者は近世に、後者は古代・中世に注目した結果といえる。いずれの指摘も、それぞれに説得力あるもので、示唆にとんでいるが、本稿では、中世の羽黒山に注目することで、両者を止揚する新たな像を提示したい。より言うなら、有力官僧寺院から(近世においても、その性格を完全に失うわけではないが)、どのようにして修験の寺に性格を変化させていったのか、見てみよう。しかし、羽黒山の中世史は、なぞに包まれている。それは残存する史料が極端に少ないことによる。だが、そのことは、奥州・出羽・佐渡・越後・信濃は羽黒権現の敷地といわれ、「西二十四ヶ国は紀州熊野三所権現の、九州九ヶ国は彦山権現の、東三十三ヶ国は羽黒山権現の領地だ」といわれた羽黒山の中世史が貧弱であったことを意味してはいない。たとえば、承元三(一二〇九)年に、羽黒山の僧侶たちが大泉庄地頭大泉氏平を所領「千八百枚」を押領し、羽黒山内の事に介入したとして鎌倉幕府に訴え、幕府も羽黒山の言い分を認めたことはよく知られている。一枚を一町とすれば千八百町の所領を有する地方の巨大寺院であった。また、『太平記』に見られる雲景未来記の作者雲景は羽黒の山伏であった。このように、中世の羽黒山はその存在を日本中に知られていたのである。そこで本稿では、中世の羽黒山の実態に迫ることを主眼とする。けれども、やはり資料の少なさは遺憾ともしがたい。しかし、幸いにも今回、以下のような注目すべき二点の新資料を見いだすことができたので、それらを紹介しつつ中世の羽黒山の実態に迫ろう。

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