- 著者
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蒲原 静美
- 出版者
- 九州龍谷短期大学
- 雑誌
- 九州龍谷短期大学紀要 (ISSN:09116583)
- 巻号頁・発行日
- vol.39, pp.1-18, 1993-03-20
あはれともいふべき人はおもほえで みのいたづらになりぬべきかな 百人一首で名を知られている「謙徳公」は,一条摂政又は摂政太政大臣藤原伊尹として知られているところである。後撰集撰進時にあっては,蔵人少将の任にあり和歌所別当として責任を全うした人物でもある。謙徳公が勅撰和歌集に名を連ねているのは,二十一代集中の後撰集から新後拾遺集に至る間の約半数に及ぶ十一の勅撰和歌集で,入集歌数三十一首が撰出されている。その中の二十一首が鎌倉前期の新古今集・新勅撰集に集中しており,初期後撰・拾遺以後約二百年の空白期間をおき,この新古今集において「恋歌」でもって見直される処となった。このことを考えることは,新古今集の性格を考える上からも,また,謙徳公の歌の特質を知る上からも無意味なことではなかろうし,ことに,後撰集撰進や天徳四年三月内裏歌合など重要な役割を果たしながらも,歌人としての姿がいまひとつ見えてこないのは何故だろうか。和歌史的課題をも頭に置きながら本稿では伊尹の時代的背景をさぐりつつ,一条摂政御集と新古今集の拘わりを考えてみたい。