- 著者
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井黒 弥太郎
- 出版者
- 北海道地理学会
- 雑誌
- 北海道地理学会会報 (ISSN:21865418)
- 巻号頁・発行日
- vol.1954, no.20, pp.87-94, 1954 (Released:2012-08-27)
さきに北海道開拓図 (昭25) と石狩平野のフロンティヤーライン (昭26) を報告したが、今囘さらに大谷地 (東米里) を例として、開拓の一面を述べてみたい。この地域は北海道地理学界にとっても、ゆかりの深いところであり、かつ刊行物に登載されることの多い土地の1つである。この母村白石は明治4年に成立したが、原野の「川下」に小池嘉一郎が造田を目的として入地したのが明治18年のことである。厚別川の流下した沃土が湿原の中に自然堤防を形成していたからである。以来周辺の開拓は駸々として進んだが、この湿原は容易に人を近ずけず、ようよう昭和27年に至って一応開拓を完了した。1896年図では「川下」水田地の外は一帯原始の面影を残しているが、1916年図ではようやく四周より水田化が進み、殊に明治39年山本厚三氏の計画村が延長1里にわたって楔入し、石狩湿原開拓の範を示した。1935年図では更に耕境の北進が著しい。この頃より石狩川の治水工事が着々進行し浸水の憂は去り、地下水位は低下してでい炭地は乾燥しはじめた。昭和21年この地を踏査したときは (開拓線図参照) 広い草原に道もなく、足もとの湿地に少からぬ危険を感じたが、草小屋が点々し鍬持つ人々も散見して開拓の気運が満ちていた。この頃から国の力がかつてない勢を以て、この近く札幌のビルディングを指呼する好位置に集中された。昭和27年にはその名も東米里となって区画整然とし、わずかの草地を残して生気に満ちた好農村となった。昭和20年以降のいわゆる開拓地に属する部分は約1050町歩で、内可耕地は840町歩、昭和27年まで約650町歩が耕成され、160戸860人が定着し、この年電燈も点じ、軌道客土も進行している。さらに北海道総合開発計画による豊平川河水統制が実現すれば全部開田する予定である。開拓は自然景観が文化景観に移行し終る過程をいう。これを明らかにするためには、原始景観を復原し、その地域の各年次景観 (その時代の地理的断面) をあつめて、総合観察することが基本的な仕事である。ここでは1896、1916、1935の3図を示した。昭和21、27は測図し得ないので、特に掲げることができなかつた。ここでは総合の1例として開拓線Frontier Lineを描いてみた。開拓は社会条件 (開拓営力) が自然条件を統制して居住圏を拡大することであるので、この地の最も重要な条件たる壌と洪水の図 (自然条件図) を示した, 他の諸図と対比せられて、その密関性を観察されたい。社会条件については、ところどころに若干触れておいた。この地域は全道的にみて、もとより狭小な面積に過ぎないにしても、80年にわたる住民努力のあとは決して簡単ではない。他日詳しく論ずるの機を得たいと思う。