- 著者
-
ワシーリー モロジャコフ
- 出版者
- 拓殖大学
- 雑誌
- 拓殖大学百年史研究 (ISSN:13448781)
- 巻号頁・発行日
- vol.12, pp.A1-A59, 2003-06-30
明治・大正・昭和戦前期の日本には,ロシア(のちソ連)との協力および同盟のアイデアを支持している政治家・外交官はかなり少なかった。しかし,隣国であるロシアとの友好な関係の必要性を理解している政治家もいた。その一人は拓殖大学第三代学長後藤新平(1857-1929年)であった。明治・大正時代の代表的な人物である後藤は,官僚(内相,外相,東京市長),政治家(東洋協会会長),経営者(満鉄の最初総裁),知識人(医学博士,拓殖大学学長)などとしてよく知られている。彼は伊藤博文,山縣有朋,桂太郎,田中義一等同時代の最も権威を持っている政治家の協力者として日本の内政・外交の柱であった。後藤の政治思想と行動の研究は多くあるにもかかわらず,日露・日ソ関係における後藤の役割という重要な問題の分析が現在まで足りない。日露・日ソ関係の発展における後藤の役割はユニークである。 1923年2月に後藤は,ソ連の駐華全権代表大使ヨッフェを日本に招いて,非公式交渉を行った。後藤の努力を支持している勢力は少なかったが,そのうちの二人は有名な活動家,拓殖大学教授大川周明と代議士中野正剛であった。また,明治期からのロシア問題の活動家であった内田良平は,後藤の要請に応じて黒龍会会員をヨッフェの所へ送り,ヨッフェと北京で事前交渉をさせている。日露協会会長であった後藤は,1927年暮れから1928年初めにかけて,田中義一首相の要請を受けて訪ソし,ソ連の政治エリートを代表しているスターリン共産党書記長,カリーニン議長,ルィーコフ内閣総理大臣,チチェリン外相,カラハン外務次官等と会見して,日ソ友好関係の必要性と発展について話し合った。政治思想家として後藤はユーラシア外交の基礎を作った。日露協力,のちユーラシア大陸ブロック論を擁護していた松岡洋介,白鳥敏夫等が後藤の政治思想から影響を受けて,その活動を続けていた。以上の「後藤新平とソビエト・ロシア」は筆者の新しい研究プロジェクト『大正・昭和戦前期日本におけるロシア・ソ連観』の一部である。本研究プロジェクトは2000・2001年小渕フェローシップのなかで始まった。