- 著者
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加藤 克
- 出版者
- 札幌博物場研究
- 雑誌
- 札幌博物場研究会誌
- 巻号頁・発行日
- vol.2020, pp.1-23, 2020-03-26
『大正日日新聞』は、大正デモクラシー期に活躍したジャーナリスト鳥居赫雄(素川)が1918(大正7)年8月末に発生した大阪朝日新聞筆禍事件(白虹事件)で朝日新聞社を引責退社したのち、翌年11月に創刊した新聞である。新聞社設立に際して社長となった貴族院議員藤村義朗男爵、出資者である大阪の銅鉄商勝本忠兵衛と鳥居の協力によって創刊された『大正日日新聞』であったが、経営者間の不和、放漫経営、対立する朝日新聞社、毎日新聞社による圧力もあり、創刊の翌年7月には経営が破綻した。新聞社が短命であったために社史などは全く残されておらず、その設立から解散に至るまでの経緯は鳥居の下に集まっていた新聞記者たちによる鳥居の評伝や回顧録[伊豆 1952, 1962, 1965; 新妻 1969; 日本新聞協会 1976, 1977; 冨田 2017など]や当時の朝日新聞社社長村山龍平の伝記[朝日新聞社大阪本社社史編集室 1953、以下『村山伝』と表記]、『朝日新聞社史』[朝日新聞百年史編集委員会 1991、以下『朝日社史』と表記]などに基づいている。ただし、評伝の大部分は新聞社設立から30年以上経過した時点での記憶に頼っているため内容には異同があり、個々の事象の前後関係も明確ではない部分がある。朝日新聞社の社内用資料として清水[1964]が『大正日日新聞』についてまとめた資料も、その多くは鳥居の評伝を執筆した記者からの聞き取りに基づいており、『朝日社史』の記述も同様の傾向があると考えられる。また、主要な出資者である勝本忠兵衛の「人となりがわからない」[冨田 2017]とされることや、「編集局の陣容は、まさに超一流だったが、残念ながら経営陣に人を得ず」[内川 1967]と評価されたり、鳥居の「理想的な新聞」を勝本が「一つの企業と考えていたに過ぎ」なかった[伊豆 1965]と評価されていることなど、新聞社経営に理解、能力を持たない勝本の存在が経営者間の対立の理由の一つとされていることも、残された情報が鳥居や新聞社視点からのものに偏っており、かつその記述の目的がジャーナリスト鳥居素川を顕彰するためであることに由来していると考えられる。これらの点から考えて、『大正日日新聞』に関する従来の歴史的経緯の理解は、新聞社設立に関わった当事者全員の実際の考えや行動に基づくものではない可能性がある。
本稿は上記の課題に対して、白虹事件から『大正日日新聞』創刊前後までの期間における、これまでその存在が知られていなかった鳥居と勝本を中心とする関係者の書簡群(1)を利用して、新聞社設立に至る経緯、鳥居と勝本の考えや行動の実態を把握する。そして、従来とは異なる観点からその経緯をみたときに、これまでの理解が十分であったのか否かを確認したい。これにあわせて、『大正日日新聞』に関係してこれまで全く名前が挙がることがなかった、書簡の宛先である北海道帝国大学教授八田三郎のキーパーソンとしての役割についても示すこととしたい。