著者
波田野 節子
出版者
International Association of Korean Literary and Cultural Studies
雑誌
SAI
巻号頁・発行日
vol.7, pp.89-139, 2009-11

作者自身が自伝と呼んだこともあって、これまで「女人」の内容は事実と見なされる傾向があった。本稿では「女人」のテキスト中、日本が舞台になっている最初の連載3回分「メリー」「中島芳江」「萬造寺あき子」をできるだけ実証的に考証することを試みた。その結果、「メリー」「中島芳江」にj関しては、少なくとも白金台周辺の地理的記述は事実に立脚していることがわかった。次に「萬造寺あき子」に登場するF画伯=藤島武二について、 年譜および弟子たちの回想と照らし合わせてみたところ、金東仁が藤島の門下生であった可能性はほとんどないことが明らかになった。したがって、萬造寺あき子という女性も金東仁が創り出した人物ということになる。本稿では、それでは彼女は金東仁にとって何を意味していたのだろうという問いかけをおこなった。そして、「女人」の主人公を魅了すると同時に嫌悪させるあき子という女性は、一つは自我の壁に閉じ込められていた金東仁が心の奥で求めていた「他者」、もう一つは映画は博覧會などの文化的なよそおいで植民地の青年を惹きつけたメトロポリス「東京」、この二つを意味しており、「女人」の主人公があき子に抱くアンビヴァレントな感情は、作者が「他者」と「東京」に対して抱いたアンビヴァレンスの投影であったのではないかと推論した。本稿では最後に、金東仁が自身を藤島の弟子に擬した理由を考えた。テキストにある「単純美」「構成美」という言葉を手がかににして、この二人の芸術家の創作論に共通する「単純化」という言葉を比較検討し、金東仁が小説創作上不可欠とした「単純化」は、藤島が製作のさい画面構成の第一義と力説した「単純化」(サンプリシテ)から採り入れたのであろうと推論した。金東仁が「女人」の中で自分は藤島から美学を学んだと語ったのは、直接の指導を受けたことはなくても彼の繪画論から間接的に学んだという意識があったからだと思われるのである。