著者
波田野 節子
出版者
新潟大学
雑誌
新潟大学言語文化研究 (ISSN:13430467)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.127-143, 2000-12
著者
波田野 節子
出版者
国際地域研究学会
雑誌
国際地域研究論集 = JISRD : Journal of International Studies and Regional Development (ISSN:21855889)
巻号頁・発行日
no.11, pp.9-16, 2020-03

本論文は2019年5 月25日に青島の中国海洋大学で開催された海外韓国学中核大学事業団2 段階第5 回国際学会において韓国語で行なった招請発表の内容を日本語にしたものである。
著者
波田野 節子
出版者
明治学院大学言語文化研究所
雑誌
言語文化 (ISSN:02881195)
巻号頁・発行日
no.15, pp.109-131, 1998-03
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.139, pp.p71-101, 1991-04

この小論で考察するのは、李光洙の中学時代を中心とするごく初期の作品である。現在まで李光洙の初期創作については多くの研究がなされているが、それらはすべて中学と大学の二度にわたる留学時代を一括して論じており、中学時代だけを別に扱ったものはみあたらない。しかしながら、あいだに五山学校と大陸放浪をはさみ、思想的な変転のきわめて激しい、いわば李光洙の「疾風怒涛」ともいうべきこの時代は、もっと詳しい時期区分による考察を要すると思われる。とりわけ李光洙が自我に目覚め、文章行為を開始した明治学院中学時代は、作家の原点としてもっとも変更な時期であるにもかかわらず、従来軽視されてきたと言わざるをえない。本稿では全集に未収の作品も含めて李光洙のこの時代の著作を検討し、それらを通して現れてくる自我覚醒の様相から、李光洙の作家としての出発点の世界観を明らかにしていきたい。本稿で対象とする作品は、一九〇八年五月から一九一〇年八月までの二年三ケ月のあいだ、すなわち李光洙が明治学院中学四年生と五年生、および中学卒業後に五山学校で合邦を迎えるまでに発表した作品である。
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
no.143, pp.p57-107, 1992-04

李光洙は自分が明治学院中学時代にどのような奮物に接したか、どの作家のどの作品に感銘をうけたかを、いくつかの回想録に書きのこしている。本稿ではそれらの作品を具体的に調査し、その中で李光洙にもっとも強い印象を与えたと思われる作家と作品を明らかにし、それらが李光洙の最初期作品にどのような形であらわれているかを考察することで、中学時代の李光洙の世界観に近づこうと試みた。李光洙が中学時代の終わりころもっとも心酔していたのは、先輩の洪命憙のすすめで読んだ詩人バイロンであるが、その受容は日本主義者木村鷹太郎の日本語翻訳と解釈を媒介としていた。日清・日露戦争のはざまの明治三〇年代に日本がおかれていた状況を反映する木村の危機意識は、李光洙の祖国が直面していた独立の危機と重なりあって李光洙に深い感銘をあたえ、それはやがて五山で合併をむかえたときに、李光洙が生存競争の非情を痛感して進化論を真理として受け入れる下地を準備することになった。一方、木村のバイロン解釈は、日本留学中の魯迅にも強い印象をあたえた。バイロンがうたった強大な意志力を、国民に独立の気概をあたえる詩人の叫びとして功利的に考えた点は、木村も李光洙も魯迅も共通している。しかし、日露戦争の勝利で列強に並んだと自認した日本では「バイロン熱」は急速に色褪せ、進化論の「力の論理」を受け入れた李光洙が祖国を強者にするための準備論へと進んだのに反し、日本留学以前すでに進化論にであっていた魯迅は、人間の絶対的な意志による進化論克服の道を模索していった。
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 = Journal of the Academic Association of Koreanology in Japan (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.238, pp.1-33, 2016-01

一九四〇年七月の日本語小説「心相觸れてこそ」が中断したあと、李光洙は大量の対日協力的な論説、随筆、詩を日本語で発表したが、日本語小説は書かなかった。その彼が一九四三年一〇月、「加川校長」と「蠅」の二つの日本語小説を皮切りに一年間で通算七編の日本語小説を発表する。なぜ李光洙はこの時期に日本語小説を書きはじめたのか。一九四三年春、李光洙は息子の中学進学のために平安南道の江西で暮らし始めた。前年末には日本で大東亜文学者大会が開かれて李光洙も参加し、四月に朝鮮文人報国会が結成され、八月に第二回の大東亜文学者大会が開かれるという時期であったにもかかわらず、李光洙は「私事」のために田舎に引き籠ったのである。ところが、まもなく再発した結核のために、李光洙は京城にもどらざるを得なかった。彼が病床にあるあいだに息子は京城の中学に転校し、江西中学の関係者を失望させた。病勢が回復したあと李光洙が「加川校長」を書いたのは、江西中学の日本人関係者に詫びるためだったと思われる。このなかで李光洙は自らを、木村の転校の原因になる病弱な父親として登場させている。李光洙が戻ってきたころ、京城では学徒兵志願の強制が始まろうとしていて、戦況悪化のなかで知識人虐殺名簿の噂が飛び交っていた。李光洙は同胞の犠牲を減らすために対日協力を決意し、ついに東京で学徒兵志願の勧誘を行なうにいたる。このときに書かれたのが短編「蠅」である。年令制限のせいで勤労奉仕に出られない老人が七千八百九十五匹の蠅を叩き殺すという滑稽ながらも鬼気迫る姿には、この狂気の時代に李光洙が抱いた無念さが投影されている。
著者
波田野 節子
出版者
朝鮮学会
雑誌
朝鮮学報 (ISSN:05779766)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.191-230, 2006-07

洪命憙の歴史小説『林巨正』は一九二八年から一九四〇年まで中断を繰り返しながら新聞と雑誌に連載された。筆者はその連載期間をつぎの三期に分けた。一九二八年から翌年の逮捕収監までの第一期、一九三二年の連載再開から三年後の病気による中断までの第二期、そして一九三七年の再開から一九四〇年後の完全中断までの第三期である。洪命憙は第二期の『義兄弟編』を執筆している途中、その当時復刻された朝鮮の正史『朝鮮王朝実録』と出会ったが、とりあえずそのまま書き続けて『火賊編』以降でこの正史を小説の材源として取り入れ、連載が完全に終わって『林巨正』を単行本にするときに、前に書いた『義兄弟編』を後で書いた『火賊編』の内容に合わせて修正したと推測される。筆者は第二期の記述に見られる時間の食い違いに疑問をいだき、原因を突きとめるためにこの時期の新聞連載と単行本のテキス卜を対校した。残念ながら原因を解明することはできなかったが、代わりに、単行本では消されて連載本テキストにだけ残された、作家の試行錯誤や推敲の跡を見出すことができた。本稿ではまた、『火賊編』冒頭の歴史的記述が、単行本にするさいに挿入されたものであることも明らかにした。この挿入は第三期における作家の創作姿勢を示唆するように思われる。
著者
波田野 節子
出版者
International Association of Korean Literary and Cultural Studies
雑誌
SAI
巻号頁・発行日
vol.7, pp.89-139, 2009-11

作者自身が自伝と呼んだこともあって、これまで「女人」の内容は事実と見なされる傾向があった。本稿では「女人」のテキスト中、日本が舞台になっている最初の連載3回分「メリー」「中島芳江」「萬造寺あき子」をできるだけ実証的に考証することを試みた。その結果、「メリー」「中島芳江」にj関しては、少なくとも白金台周辺の地理的記述は事実に立脚していることがわかった。次に「萬造寺あき子」に登場するF画伯=藤島武二について、 年譜および弟子たちの回想と照らし合わせてみたところ、金東仁が藤島の門下生であった可能性はほとんどないことが明らかになった。したがって、萬造寺あき子という女性も金東仁が創り出した人物ということになる。本稿では、それでは彼女は金東仁にとって何を意味していたのだろうという問いかけをおこなった。そして、「女人」の主人公を魅了すると同時に嫌悪させるあき子という女性は、一つは自我の壁に閉じ込められていた金東仁が心の奥で求めていた「他者」、もう一つは映画は博覧會などの文化的なよそおいで植民地の青年を惹きつけたメトロポリス「東京」、この二つを意味しており、「女人」の主人公があき子に抱くアンビヴァレントな感情は、作者が「他者」と「東京」に対して抱いたアンビヴァレンスの投影であったのではないかと推論した。本稿では最後に、金東仁が自身を藤島の弟子に擬した理由を考えた。テキストにある「単純美」「構成美」という言葉を手がかににして、この二人の芸術家の創作論に共通する「単純化」という言葉を比較検討し、金東仁が小説創作上不可欠とした「単純化」は、藤島が製作のさい画面構成の第一義と力説した「単純化」(サンプリシテ)から採り入れたのであろうと推論した。金東仁が「女人」の中で自分は藤島から美学を学んだと語ったのは、直接の指導を受けたことはなくても彼の繪画論から間接的に学んだという意識があったからだと思われるのである。