著者
奥田 謙造
出版者
トヨタ自動車株式会社
雑誌
奨励研究
巻号頁・発行日
2014-04-01

米国のトルーマン政権は、対ソ連心理戦に関し、1951年に心理戦略委員会を設立し、政治・経済・軍事に関与する「明白」・「機密」の宣伝を推進したのに対し、アイゼンハワー政権は、それまでの心理戦は問題があるとし、1953年6月に「明白」な宣伝を行う作戦調整委員会を設立し、この下に8月に米国文化情報局を設置して、国際情報・文化・教育交流のための博覧会・映画上映・VOA等事業、さらに、12月の「平和のための原子」演説後に、日本への原子力平和利用も進めた。一方、英国も1948年、対ソ連政治戦(米国の心理戦に相当)に関し、外務省内に「明白」・「機密」の宣伝を行う情報研究部を設立し、米国のソ連への直接攻撃に対し、自由主義諸国内の共産主義の影響を阻む調整を図った。米国占領下の日本においては、米国政策の制約を受けながら、戦時中に青春期を犠牲にした若者を対象に政治戦を進めた。しかし、日本の独立後は自由な戦略が可能となった。英国は戦後、経済力は低下し、原子力戦略にも焦りが広がり、米国とは相入れない面もあったが、両国の心理的協調は堅固で有効に作用した。ところで、科学分野で英国は、終戦直後から、軍と学者により原子力の研究開発を進めた。1950年3月に、コッククロフトは「原子力の見通し」論文の中で、原子力と非原子力の区分を行い、原子力平和利用として、第1に原子力発電所建設、第2に増殖炉開発を提唱した。さらに、遡って戦時中の“チューブアロイズ”プロジェクトにおける1943年のケベック協定では、「核開発成果は戦後に英国の民間での利用を認める」、ことも示されていた。以上のような、戦中・戦後の米英の連携から、1955年以後の日本への原子力導入において、米国から先に「原子力平和使節団」が招聘されたにも関わらず、英国は米国の開発遅れを察すると、直ちにコールダーホール型原子炉の導入の態勢を整えられたと考えられる。