著者
河崎 哲嗣
出版者
京都府立嵯峨野高等学校
雑誌
奨励研究
巻号頁・発行日
2007

現在,青少年の「理数・科学技術離れ」が巌然と存在し,青少年の学力低下や理数系進学者数の減少も深刻な社会問題になっている。日本の数学教育研究においては,後期中等教育及び高等教育分野での研究が盛んでないこともあり,高等学校と大学との連携や科学・技術分野との融合を意識した研究はほとんどなされていない。このような現状認識に鑑み本研究は,理系分野への進学を目指した中学・高校生を対象にし,大学との連携も意識した新しい高等学校(中等教育学校)数学単元の開発を将来の最終課題としている。今回の取り組みでは,大学・企業団体を中心にして催されているソーラーボートコンテストへの出艇を目指し,中学・高校生の科学・技術への興味・関心を高める活動に焦点を充てた。2007年5月26日東京大学工学部キャビテーションタンク棟にて,流体力学の考えとソーラーボート製作のノウハウを享受された。また,8月25日には第11回クルーレスソーラーボート大会先端技術部門に参加し,船体の模擬実験として工夫を試みた。新たな船体製作は,京都教育大学木工室を拠点とし現在も改良工夫中である。また,京都教育大学安東茂樹教授から中学・高校レベルにおけるボート製作資料及び指導を受け,今後も生徒自身が制作でアイデアを加味できるように改良を続けていく。次に,数学からのアプローチとして,位置や距離の把握を地球規模で捉える内容を扱ったテキストや船体構造に向けての空間把握の簡単な認識調査を行った。前半のテキストについては,京都府立嵯峨野高等学校第1学年自然科学系統20名対象に「シンガポール〜学校までの距離測定」として冬休みの課題とした。また後半の認識調査の結果は,数学Iの空間図形への応用の中で行い2面角の理解が育成されていない問題点が明確になった。これらの内容は,http://www2.hamajima.co.jp/~mathenet/wiki/index.php?NetaTaneMenuでも公開しており,また12月7日キャンパスプラザ京都において,京都高大連携研究協議会主催の第2分科会「高大数学教育の接続の可能性を具体的実践から探る」,続いて3月24日近畿大学理工学部において数学教育学会春季年会Organized Session Bの両会で一部発表を行った。さて先進技術であるGPS機能を取り入れたマイコン制御を駆使したプログラミング教材は,京都教育大学附属高等学校山田公成氏から援助を受け模擬実験を重ね概ね完成している。京都教育大学附属高校の情報の授業の中で基礎実験として取り入れる方向として発展拡大していく。今後生徒の数学への興味・関心を高め,数学の学習内容の理解の増進を図ることを基本としつつも,大学数学(工学系及び技術)を意識した教材を提供し,更に広めたいと考える。従って今回は1年で区切りをつける研究ではあったが,次年度以降も研究開発を続け成果報告を行う計画である。
著者
多田 英俊
出版者
京都府立嵯峨野高等学校
雑誌
奨励研究
巻号頁・発行日
2010

1、研究目的鴻池幸武は昭和十年代に活躍した演劇評論家である。幼少より父善右衛門の趣味でもあった浄瑠璃義太夫節に親しみ、長じては人形浄瑠璃文楽および歌舞伎の研究に着手し、私家版として二つの芸談『吉田栄三自伝』『道八芸談』を著した。とはいえ、卅一歳の若さで戦没したこともあり、研究の具体的内容や方向性等については整理されないまま現在に至っている。したがって、論理的思考と音楽的感性を兼ね備えた鴻池の論考を検討することにより、戦後の豊竹山城少掾(二世豊竹古靭太夫)に代表されるいわゆる義太夫節の近代化というものの本質と、その延長線上にある現在の人形浄瑠璃文楽を、新たな視点からとらえ直すことが可能となる。2、研究方法今回はその第一段階として、鴻池幸武が残した評論を分析しその中核となる観点を体系的に把握することを主眼とした。鴻池の評論は、「浄瑠璃雑誌」を中心として、武智鉄二主宰の同人誌「劇評」に寄稿されたものがほとんどで、その他浄瑠璃を中心とした演劇批評誌に散見された。収集した資料は、検索が容易に進められるよう、まずパソコンを利用してデジタル化した。その上で、各評論を検討してその主題を分類し整理した。評論により取り上げられた音源については、SPレコードからデジタル化されたものを入手し、音声処理ソフトを導入してその雑音等を除去した上で、丸本および五行本と照らし合わせながら精密な聞き分けを行った。3、研究成果鴻池幸武の主張を端的に表現すれば、「風」を体現できない浄瑠璃はもはや義太夫節ではないのであり、体現できたもののみが芸術的価値を有する、というものであった。そして、現状においてそれが可能なのは、二世豊竹古靱太夫であると結論付けられている。また、「風」の伝承にあって最も重要な役割を果たしたのは、三味線の名人二世豊沢団平と彼が中心となった彦六座であり、それは現行文楽座における技巧の優劣や番付上の位置とはまったく無関係とする。文楽座の櫓下であった古靭は、彼を育てた相三味線三世鶴沢清六が、団平によって鍛えられた二世竹本大隅太夫の相三味線を務めていたことから、「風」の正統的後継者として芸術家たる評価を受けるに至った。このように、戦後の近代化の象徴は、明治期にその原形が見出されたのである。