著者
小林 玲子
出版者
京都聖母女学院短期大学
雑誌
聖母女学院短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.64-67, 2007

アダムとエヴァの罪の解釈を取り上げたのは、政教分離のなかった頃、キリスト教の信者たちがこの話を操る権力者たちによって、知識は禁断の実であって、何も知らずに神と教会の命令に従う事こそ良き信仰の道であると教え込まれていた後遺症が、今だに残っているからである。しかし、ユダヤ教においてもキリスト教においても、神と人間の決定的な出会いの場は、人間が自分の罪を悔い改めて神に立ち帰る所にあり、先のような誤った解釈は、人々が自分自身の罪と救いを真剣に考えることを妨げるものである。ダビデ王は神の為にと思って様々な大事業を成し遂げたものの、神と最も深い所で出会ったのは自分の犯した罪を悔い改めた時であった。イエスも放蕩息子の喩えで、悔い改めた人と神の出会いを物語っている。教会の規則を守って悪行をしなければ救われる、あるいは善行を積めば救われるというのは、本来のキリスト教の教えではないと言うべきであろう。アダムが罪を犯したからではなく、我々が罪人だからこそイエス・キリストの救いが必要なのだ。キリストは、悔い改める我々と神のコミュニケーションを回復させる。そして人間の善悪の知識は、このコミュニケーションにおいて初めて確かなものとなるのである。本論は3部から成る。まず、聖書の解釈一般について、次にアダム神話の解釈を述べ、その後、アダム神話の人間論的意義について述べる。