- 著者
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小川 正樹
- 出版者
- 函館ラ・サール高等学校
- 雑誌
- 奨励研究
- 巻号頁・発行日
- 2008
本研究では、北海道における華僑社会の形成と発展について、その概略をまとめた。幕末開港以来、函館に海産商が移住し、現在ではほぼ全道で華僑が生活している。しかし、道内への移住経緯やその後の華僑社会の推移についても不明なところが多い。北海道は明治維新後「内地」に編入されながらも、「外地」としての性格ももつ、国内でも異質な地域であり、1910年から1941年までの間に、華僑人口が88人から299人に増加し、居住地域も函館、札幌、旭川、浦河から、ほぼ北海道全域へと拡大した。道内主要都市の華僑の出身地を調査すると、福建省福清県出身者が中心であり、職業も呉服行商のほか、料理人や商店員、毛皮商などであった。非常に小規模ではあるが、しかし、確実に華僑社会は北海道に形成されていったことがわかる。道内の都市を比較してみると、各都市はそれぞれ異なる性格を有している。函館は幕末以来の外国人居留地や貿易港として発展した。函館華僑は、幕末には、広東省出身者が中心であつたが、明治初期には、三江地方出身者が主流となり、日清戦争の勃発により海産商が帰国し始めると、福建省出身者の移住が本格化し、函館を拠点に呉服行商として道内各地に移住していった。札幌は道都として開発が進み、開拓使に雇われたお雇外国人の中に10名の中国人農夫が含まれていた。こうして札幌華僑は農業移民から始まり、戦前の一時期、函館や旭川をおさえて華僑人口が全道最大となった。しかし、戦後になると、北大の留学生が中心となって北海道札幌華僑総会が設立されるなど、戦前と戦後に大きな断絶が存在する。旭川は、1899年に内地開放されてから外国人が居住するようになり、この時期に道内に移住してきた福建省出身者が中心となって華僑総会を設立し、旭川華僑は現在まで続いている。この三都市の華僑は移住開始時期、性格も異なり、一つとしてまとめることは不可能である。福建省出身者以外に、札幌と小樽では山東省出身者の存在が確認でき、この華僑の進出の経緯は未だ明らかにされていない。この山東省出身者のネットワークについて、今後は中国東北地方や沿海地方との関連についても検討していく必要がある。北海道華僑を日本国内の華僑だけではなく、北東アジア全域の華僑の動きと関連して考えていくことが今後の大きな課題である。