- 著者
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花田 勝広
- 出版者
- 滋賀県野洲市教育委員会 文化財保護課
- 雑誌
- 奨励研究
- 巻号頁・発行日
- 2008
研究の目的古墳時代の渡来人は、ヤマト政権内部の技術変革と支配構造に影響を与えたこと知られる。古墳時代中期以降、須恵器・韓式系土器などの遺物・鍛冶遺構から技術系工人、横穴式石室などの群集墳に埋葬される固有性が顕著な事例では検証することが可能である。文献史学のミヤケ制を古墳群・遺跡・遺物などの考古資料を積極的に用い、渡来系氏族の存在を検証・新たな展望を示唆した。ヤマト政権の地域支配に渡来人が従来知られる以上に積極的に関わっており、本年度の研究費で下記の研究を実施した。視点と実施内容大型群集墳等の横穴式石室の実測調査は、平成20年7月~3月に集中的に花田が単独で実施した。ミヤケ推定地の遺物精査を平成20年8月~3月)に実施し、渡来人の墓制の実態と様相を、明らかにした。さらに、従来の韓式系土器などの遺物に加えて、私が専門に進めている大壁建物などの遺構を実査・確認することにより、渡来人集団の墓制の摘出を行った。平成20年11月に古代学研究会で、現状の成果を報告・要旨を一担整理した。平成21年1月以降は原稿の成稿に専念した。研究内容と成果基礎的資料の作成のため、渡来人の群集墳である大和の龍王山古墳群の開口する32基の実測調査を行った。平尾山古墳群の横穴式石室の実測は開口する10基の実測を行った。平尾山古墳群は、東洋文庫の梅原末治考古資料の目録調査を行い、消滅した20基の古墳石室図を確認した。群全体の石室間の規模格差・構築方法を考慮し実測を行った。画一化された横穴式石室の大群的な集約はヤマト政権の墓制へ規制とみた。渡来人が被葬者集団であり、墓制の実証的な横穴式石室のデーターを作成しながら、大型群集墳の形成の成因がミヤケ制と考えられるとの結論となった。畿内大型群集墳の中枢構造の渡来系氏族の高安・安宿郡の集落の把握、ミヤケ制の展開を知るため、畿内型横穴式石室の普及・確立過程を首長墓と併せて解明するため、福岡市那津ミヤケの設置された玄界灘沿岸、ミヤケの設置記事のある行橋市周辺の横穴墓、筑紫君磐井拠点地域の久留米市古墳など、渡来系資料の実査・古墳精査・報告書・論文の収集を集中的に行った。資料調査は、福岡・市埋文センター・宗像市・福津市・古賀市・那珂川町・前原市の渡来系遺物資料の実査と周辺の古墳の現地精査、飯塚市・行橋市・久留米などでも古墳の現地精査を行った。岡山県児島ミヤケや三宅里を調べるため岡山県総社市でこうもり塚・江崎古墳の精査を行った。渡来人の東海への渡来系資料精査のため、名古屋市の博物館の渡来系遺物実査を行った。ミヤケの設置は、畿内地域が渡来人集団に初源的な戸籍や編戸を伴った可能性が高く、大型群集墳は渡来系集団の造墓である可能性が高い。吉備ミヤケ周辺では古墳が当初地域的な特性を示す横穴式石室が形成されるが、7世紀初めには畿内型石室となる。筑紫の玄界灘沿岸には、那津ミヤケが設置されるが、墓制は福室の九州型石室であり、墓制の転換がなされていない。しかし、須恵器・製鉄遺跡は6世紀末以降にヤマト政権による直接的な生産支配が行われている。渡来系資料も数多く出土しており、渡来人の積極的な関与がなされている。欽明朝のミヤケ制は畿内・吉備は直接的であったが、他地域は、推古朝以降に制度的変革がなされているようだ。ヤマト政権の地域支配であるミヤケ制の解明は、墓制や渡来系遺物の様相より、渡来人の痕跡を明らかにすることにより、制度を考古学的資料から明らかにできた。また、畿内の横穴墓が豊前のミヤケ設置地帯から系譜を引くものであり、ミヤケ設置に伴う集団の畿内への移住が考えられる。史料から見ると秦氏の集住地帯である