著者
立岩 真也
出版者
日本法哲学会
雑誌
法哲学年報 (ISSN:03872890)
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.43-55,204, 2005-09-30 (Released:2008-11-17)

まず「報告要旨」として送った文章を再掲する。拙著『自由の平等』(岩波書店、二〇〇四年)に考えたことを書いた。第一章でリバタリアニズムに対する反駁を行っている。また、契約論的な理論構成からもリバタリアニズムが正当とする規則は導出されると限らず、導出されても規則の正当化に至らないことも述べた。また第二章では嫉妬や怨恨を持ち出して社会的分配を非難する論に対する反論を行い、そして第三章で私たちがどのような私たちであれば、分配はより積極的に支持されることになるのかを検討した。(第四章から第六章は社会的分配に肯定的なりベラリズムの議論の吟味なので、今回の議論には直接には関わらない。)この本は基本的には財の所有・分配について論じた本なのだが(それ以外のことを論じた本ではないのだが)、その範囲内については、基本的なところでは間違っていないことが述べられていると考えている。だから報告もその線に沿ったものになる。(関連情報はホームページhttp://www.arsvi.comをご覧いだだきたい。)「Aが作ったものをAが所持し処分することは認められるが、それをBがとることは認められないとされる。/しかしこれを自由の立場から正当化することはできない。『私が私のためのものをとる』という状態と自由とを等値する人、自由とつなげる人もいるが、それはただ単に誤解している。この状態で自由であるのはAであり、Bは自由ではない。Bはしたいことができない、自由を妨げられていると言いうる。この状態を是認する立場を「私有派」と呼ぶならそれは自由の立場ではない。」(pp. 40-41)つまり、所有・分配については、私の立場はリバタリアンの立場とはまったく異なっており、その立場は間違っていると考えている。ゆえに、以下に引用するその本の第一章の冒頭近くは、私としては比較的好意的な記述と言えるのかもしれない。「これは別に論ずることにするが、リバタリアンの主張にはおもしろい部分もある。おもしろいことも言う人たちがなぜこんなことを言うのか、不思議に思える。だから考えてみようとも思う。/まず、国家が行うことの性質を強制と捉えること自体はもちろん間違いではない。むしろ本質を捉えている。国家が他と異なるのは、それが強制力を持つことであり、リバタリアンはこのことにはっきりと焦点を当てている。だからその主張は検討するに値する。」(pp. 37-38)強制されることがさしあたり歓迎されざることであることを認めよう。また強制を介在させることに伴う厄介事が様々あることを認めよう-それをどのように軽減できるかを考えることは興味深く重要な主題である。しかし所有権を設定し保護する規則を設定するのであれば、それは強制であり、様々ありうる規則の違いは、強制の有無という違いではなく、どのような強制を行なうかの違いである。むろん、これと別に、ここに一切の規則を設定しないという選択肢 リバタリアンの中にもそれを支持する人は多くないように思うが-もある。しかしやはりこの場合でも、多くの人々は生きるに除去あるいは軽減することのできる制約を課せられることになる。それでよいかと考えると、やはり望ましくないと答えることになる。そして以下は、学会大会で私が述べたと記憶していることである。そこでなされたように思う議論の一部にもふれている。またすこし論点を補った部分もある。リバタリアンの言説は湿気ってなくて、それは私が好きなところだ。また、森村進の論などに存する一種の脱力感、妙な力が入っていないところも好きだ。このようにまず述べて、あるいは後で補足して、私は以下のようなことを述べたはずである。

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