著者
山田 光胤
出版者
The Japan Society for Oriental Medicine
雑誌
日本東洋医学雑誌 (ISSN:02874857)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.505-518, 1996-01-20 (Released:2010-03-12)
参考文献数
17

医療は専ら西洋医学を修めた医師によって行うこととし, 漢方を学んでも医師の資格は与えないという明治政府の処置によって, 明治16年 (1883) 以降漢方医学を学ぶ者は次第に絶え, 我が国の伝統医学・医療は絶滅に瀕した。これは, 日本人の特に当時の政府人の西洋崇拝, 伝統蔑視の思想が強く関与しているものと思われた。このような風潮は, 現在でも引き継がれていると考えられる。しかし, 幕末から明治にかけて, 日本漢方を西洋医学と対比するに, 外科手術の面は別として, 内科的治療のレベルは, むしろ日本漢方が優れていた。この具体的な症例を, 浅田宗伯は著書『橘窓書影』の中に記録している。そのような時流の中で, 東洋医学を学んで医師となった和田啓十郎は, 漢方医学の有用性・重要性を唱えて, 明治43年 (1910),『医界之鉄椎』を著した。この書は実に, 漢方医学復興の一粒の種子となった。金沢医専出身の医師・湯本求眞は, この書によって啓発され, 和田門下となって生涯を漢方医学の究明と, それによっての患者の治療に尽し, 昭和2年,『皇漢医学』3巻を著した。この書は, 西洋医学の知見を混えて, 傷寒論, 金匱要略の解釈を中心にした, 漢方最初の現代語による解説書である。湯本の『皇漢医学』は, その後の我が国に於ける漢方医学の復興に, 大きな影響を及ぼしたのみでなく, 中国に於ても, その伝統医学の温存に力を与えたといわれる。ともあれ昭和年代初頭では, ごく僅かな生き残りの漢方医と数名の医師によって, 漢方医学が伝承されていたが, やがて, 漢方復興の機運が, 次第に醸成され, 種々な運動が起こった。昭和11年 (1936), 当時新進の漢方医学研究者が志を同じくし, 漢方医学復興を目指してその講習会を開催した。偕行学苑と名付けられたが, 翌年より拓大漢方講座と名を改めた。この漢方講座は, 昭和19年 (1944) 迄8回, 毎回約3ヵ月乃至4ヵ月間ずつ開催され, 第2次大戦後の昭和24年 (1949) に, 第9回紅陵大学漢方講座として15日間開催された。通算9回, 700名以上の有志が聴講し, 中からはその後, 漢方医学界の柱石となる人物も輩出した (筆者も, 戦後の第9回講座を, 医学生の身分で聴講した)。第2次大戦前の昭和16年, 南山堂より『漢方診療の実際』という書が発行された。この書は, 従来の「証」に随って治療する漢方の本質から一歩踏み出して, 現代医学的病名に対して, 使用した経験のある漢方処方を列挙して解説している。当時とすれば画期的な漢方医学の解説書であった。そして, 第2次大戦後, 昭和29年 (1954) に改訂版が発行された。さらに昭和44年 (1969) に発行された『漢方診療医典』(南山堂) は, 漢方診療の実際を大改訂した書である。これらの書を通じて解説された, 現代医学病名に対応して用いられる漢方処方の延長が, 現在の日本で, 大量に使用されている漢方製剤の応用なのである。これらの書が, 現代日本漢方に及ぼした影響は多大なものがある。その『漢方診療の実際』初版は, 大塚敬節, 矢数道明, 木村長久, 清水藤太郎の共著となっている。これらの著者達こそ, 拓大漢方講座講師団の中核であって, その後の漢方復興運動を成し遂げた人達である。それらの人達の系譜こそはまた, 現代日本漢方の正統でもある。即ち大塚敬節は, 湯本求眞門下の古方派の学統を継ぎ, 木村長久は, 明治の大家・浅田宗伯の直門・木村伯昭の嗣子で折衷派の学統を継ぎ, 矢数道明は, 大正時代に活躍した漢方医・森道伯の流れを汲む後世派・一貫堂の後裔であった。

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