著者
栄原 永遠男
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-9, 2015 (Released:2022-05-28)

聖武天皇は、神亀₃年に難波宮に行幸し、藤原宇合を知造難波宮事に任命し、難波宮の造営に乗りだした。しかし、聖武天皇は、この行幸の前に、播磨国の印南野に行幸し、そののち難波宮にまわっている。この連続する二つの行幸には関連があるとみるべきである。聖武天皇の即位初期の行幸は、いずれも自らの皇位の正当性を明示する場所を目的地としているので、印南野行幸も同様に考えることができる。印南野にはかつて中大兄皇子が行き、祥瑞である豊旗雲を見ている。瑞雲の著名な例として、壬申の乱のさなか名張で大海人皇子が見たものがある。聖武天皇は、この両方を知っていたはずであるが、そのうち印南野に行幸したのは、その地が、節日や鎮魂祭・大嘗祭などに供される柏の採取地であったからである。印南野の柏がこれらの王権にかかわる祭祀に使用されるのは、かつてこの地の豪族と天皇家との間に婚姻関係があり、贄が貢納されていた伝統による。聖武天皇は、祥瑞を見るために天皇家とゆかりの深い印南野に行幸し、天智・天武天皇の後継者たることを自他ともに示した上で難波宮に行幸し、その皇位の正当性を象徴する宮として難波宮の造営を命じたのである。

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