蓼沼 香未由

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遺跡から近現代の焜炉の破片が出てきたので、家の中のどんな場所で使ったのか、想像しています。 昭和初期の頃は、流しの隣、あるいは台所の南側に、焜炉を置く「焜爐台」を設置するのが、理想だったようです(第3図及びその説明)。 主婦之友社編輯局編 昭和2年 『中流住宅の模範設計』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109232/23
田山久子さんと話していて,主として外港(平津・平戸・髭釜遺跡・一本松遺跡)と内港(木下・船渡)との違いがあるのではないかと考えいたりました。13世紀,鎌倉幕府の執権北条氏及びその一族が,所領したのは,石川(平戸)氏の領地(吉田郷・恒富郷)。北条氏が日本全国の水上交通の要衝を押さえたことは,いろいろ書かれていますが,この地でも東北へ開けた外港を押さえたことになります。 時代は変わって,近代。大貫を ...
涸沼川下流における感潮区間の通船は,明治40年には,常識であったようです。 吉田東伍 1907 『大日本地名辞典 下巻(2版)』3678頁(国立国会図書館近代ライブラリー コマ番号279) 「涸沼川 涸沼の下流にして,夏海村神山と,大場村入野との間より,東北に進み,二里許にして,那珂湊に達す,或は海老沢川と云う。 涸沼川は,古書に蒜間の江と言える流海の水派なれば,細溝なれど,潮汐の進退ありて, ...
一般に地方の風景写真が撮られ,本に掲載されるようになるのは,明治時代の後期以降。そのような中,明治4~13年頃に撮影された大洗町の写真が『大日本全国名所一覧』に登載されている。明治14年に日本を離れるイタリア公使が集めたもので,被写体の分析から離日する前年までに撮影されたものであろうことが分析されている。 収められた大洗の写真は,5葉(他に同本で大洗と同定された1葉あるが,大洗の風景を知る人間が ...