著者
長谷川 和子
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
no.2, pp.97-105, 2001

チョーサー作『カンターベリー物語』中のバースの奥方による前口上に現れる彼女の人間像は,中世文学に描かれた女性の中で最も生き生きとして,肉体的にも精神的にも強く逞しい女性に見える。彼女は腕に業を持って経済的に自立しており,フェミニズムの先駆者のようでもあり,イヴに代表される男を堕落させる悪い女のようにも描かれ,その言動の過激さ,下品さ,身勝手さ,元気さ,大胆さ,陽気さが目に付く。本稿では次の事を明らかにする。チョーサーは彼女の語りの中に明らかな逆転の図式を幾つも積み上げる。例えば彼女が語りを始める前に「わたしが勝手気侭にしゃべっても,みんな冗認でいうのですから気を悪くしないで聞いて下さい」と話の信憑性を自らあやふやにしている。そして話が実際に始まると「みなさん,これから正真正銘,本当のことを話しましょう」と話の信憑性を主張する。そして五人の夫を,「この五人の夫は,それぞれ身分が違っていましたが,みな立派な男でした」と紹介するが,個々の人物の説明になると,はっきりと三人中二人は「悪いやつでした」と評価が逆転する。残りの三人の「立派さ」も,逆転的「立派さ」であることは,「おいぼれさん,この老いぼれ野郎め,おまえのような悪党,この悪党め」と彼女が夫を軽蔑的に呼ぶ事に明らかである。彼女の話の数々に逆転が用意されている。そして最後の逆転だけを表現せず聴衆の類推の中で,逆転を完成させる。そうする事によって,奥方の表面上の陽気さや強がりの下に隠れた彼女の悲しみを描いた。その悲しみとは,夫から妻として"尊敬されて"愛されないというものである。中世の女性は公然と尊敬に基づいた愛など夫に要求できなかった。チョーサーはこの口に出せない妻の主張を言葉で表現せずに類推を誘導する形で表現した。

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