著者
大島 浩英 Hirohide OSHIMA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 = Otemae journal of socio-cultural studies (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.201-214, 2005-03-25

本稿で取り上げた "Das Rollwagenbuchlin“は1555年に出版された滑稽話集(初版)である口この書物に収められているような Schwank と呼ばれる滑稽話は16世紀のドイツで数多く出版されているが、Schwank [<schwingen] とは、「韻文または散文で書かれ、面白おかしい着想やコミカルな出来事を一つの急所に集約するか、やや長くても短編小説的な体裁 をとった、簡潔で逸話風の物語。粗野で卑狼な内容のものもあれば、教訓的傾向をもつも のもある」、と説明される。従って限定された知識階級の言語ではなく一般庶民にも理解される言語で書かれたものであるため、当時の自然な言語状況を知る資料として適したも のであると考えられる。さてここで、この滑稽話集の著者 Georg Wickram について触 れておくと、Wickram は1505年 Elsaβ の Kolmar に生まれ、後に同地の裁判所書記 (Gerichtsschreiber) 、晩年は Burkheim (Freiburg と Kolmar の中間)の市書記 (Stadtschreiber) の職にあった。熱心なプロテスタントであったためカトリックの町 Kolmar を去ったと言わ れている。宗教改革の時代をプロテスタントとして生きた Wickram の生い立ちはこの著作 においても重要な背景となっているように思われる。さてこの Schwank 集の初版本には67 の話が収められており、その中には農民、聖職者、傭兵、商人、職人などの登場人物を 扱った話があるが、それらのうち本稿では傭兵が登場するSchwank 第14話 (S. 30~32) に 絞り、そこに描かれている内容に関して下線を施した部分を中心に語学的側面、意味的および社会史的側面から考察を加えたい。
著者
溝口 正
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
no.6, pp.147-166, 2005

大手前大学ならびに大手前短期大学の講義において、毎回暫定的な試験を実施してきたが、その際、朝食にご飯食またはパン食を摂取しましたか、とのアンケートもおこなった。毎週得られた評点と朝食摂取の結果を刻銘に学籍簿に記入して保存してきた。それは1999年から2005年の7年間(但し、平成16年度はマークシート自動採点様式のため残念ながら欠落)に亘って301週、27教科の集計である。対象学生数は24,928名に達した。朝食摂取の状況を要約すると、大手前大学ならびに大手前短期大学の男女学生は主としてご飯食、パン食を摂取し、その他を含めると凡そ90%が何らかの形で朝食を摂取している。パンを食べた学生とご飯を食べた学生を抽出してその割合を求めてみると前者は35%から39%であり、一方、後者は22%から28%であった。パンを食べた学生数はご飯を食べた学生数より1.6倍ほど多い。暫定的な試験の評点を集計し、今回はセメスター内の総回数12回、全てに出席した者および2日まで欠席した者を対象学生として選び、パンを食べた学生とご飯を食べた学生に分けてその評点を比較した。その数は27教科、301週において総数1,385名であった。言い換えれば熱心に受講した学生の集計である。残りの学生総数、23,543名は、出席日数8-10回の者、5日-7日の者、4日以下の者のいずれかに全て分別されるが、どの学生も暫定的な試験を受験し同時に朝食摂取のアンケートに回答しているのでそれらの調査・集計も可能である。朝食としてご飯を食べた学生の平均評点がパンを食べた学生の平均評点より高レベルであった教科は総数27教科の内16科目だった。教科7科目では双方とも同じレベルであった。低レベルであった教科は4であった。以上のことから講義を熱心に聴講し試験に良好な成績を収めるためには平素ご飯を食べる方がパンを食べる方より望ましいと考えられる。
著者
堀川 諭 Satoru Horikawa
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 = Otemae journal of socio-cultural studies (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.21-33, 2000-03-25

日々報道される少年事件の背景はさまざまであり、一様に論ずることができないことはいうまでもない。また、少年法の規制の中でわれわれの知りうる情報はきわめて限られたものであるから、個々の事件をあれこれ論ずることには慎議でなければならない。しかし、こうした少年事件にしばしば衝動的で短絡的なクレッチマーのいう「短絡反応」(short circuit reaction) ともいえる心珊機制がみられることも事実である。そこで、この小文では、少年による短絡反応の事例と考えられるニつの有名な事件、一つは、事件後三百数十年もの問語り継がれてきた「八百燦お七」の物語、いま一つは、昨今の短絡的な少年事件の現代的嚆矢ともいえる高島忠夫氏氏長男の「道夫ちゃん事件」を取り上げ、それに若干の精神病理学的な検討を加えた。いみじくも両者はともに17 歳の少年による犯行であり、前者はわが国を代表する古典作品として怯承され、後者は報道規制の緩やかであった時代の、それゆえ比較的詳細に事件の本質に迫ることのできる事件として興味深いものがある。
著者
長谷川 和子
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
no.2, pp.97-105, 2001

チョーサー作『カンターベリー物語』中のバースの奥方による前口上に現れる彼女の人間像は,中世文学に描かれた女性の中で最も生き生きとして,肉体的にも精神的にも強く逞しい女性に見える。彼女は腕に業を持って経済的に自立しており,フェミニズムの先駆者のようでもあり,イヴに代表される男を堕落させる悪い女のようにも描かれ,その言動の過激さ,下品さ,身勝手さ,元気さ,大胆さ,陽気さが目に付く。本稿では次の事を明らかにする。チョーサーは彼女の語りの中に明らかな逆転の図式を幾つも積み上げる。例えば彼女が語りを始める前に「わたしが勝手気侭にしゃべっても,みんな冗認でいうのですから気を悪くしないで聞いて下さい」と話の信憑性を自らあやふやにしている。そして話が実際に始まると「みなさん,これから正真正銘,本当のことを話しましょう」と話の信憑性を主張する。そして五人の夫を,「この五人の夫は,それぞれ身分が違っていましたが,みな立派な男でした」と紹介するが,個々の人物の説明になると,はっきりと三人中二人は「悪いやつでした」と評価が逆転する。残りの三人の「立派さ」も,逆転的「立派さ」であることは,「おいぼれさん,この老いぼれ野郎め,おまえのような悪党,この悪党め」と彼女が夫を軽蔑的に呼ぶ事に明らかである。彼女の話の数々に逆転が用意されている。そして最後の逆転だけを表現せず聴衆の類推の中で,逆転を完成させる。そうする事によって,奥方の表面上の陽気さや強がりの下に隠れた彼女の悲しみを描いた。その悲しみとは,夫から妻として"尊敬されて"愛されないというものである。中世の女性は公然と尊敬に基づいた愛など夫に要求できなかった。チョーサーはこの口に出せない妻の主張を言葉で表現せずに類推を誘導する形で表現した。