- 著者
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湯田 豊
- 出版者
- 神奈川大学
- 雑誌
- 語学研究
- 巻号頁・発行日
- vol.3, pp.121-156, 1980
I, 1,1-2。ここでは, 馬祭祀が問題になっている。馬祀祭に適した馬の頭はあけぼのであるという文句を始めとして, ここでは馬の身体の諸部分と自然現象・自然界との事物との同一視が説かれている。その際, 注意しなければならないことは, 馬と諸事物・諸事象が決して同一ではなく, 両者がある一点において共通していることが示唆されていることである。ここでは, AとBが同一であるということが述べられているのではない。AはBではない。AとBとは決定的に異なっている。ウパニシャッドは, AとBに共通した特定の項目を探求し, それを見いだそうと努めた。わたくしは, 若干のテキストおよびシャンカラの注釈に拠って, 初期ウパニシャッドにおける思考方法を明らかにしようとした。I, 2,1-7。ここでは, 馬祀祭との関連において, 世界の創造が説かれている。ここの箇所で真にユニークなのは, 「初めに」(agre) という表現である。世界の起源は, ここでは飢えとしての死である。死によって創造された世界は, 当然, 死自身から「流出」(srj) したのだから, 死によって制約されている。死にとって最高に特徴的なのは, 時間 (kala) である。われわれのウパニシャッドにおいては, 歳 (samvatsara) が時間の象徴である。すべての事物は死のなかから産み出され, 時の激流に棹さしている。世界存在は死をその本質としている。世界の起源は, 飢えとしての死のなかに求められる。死が人間存在の淵源であることを知ることが, ウパニシャッド的な認識である。それゆえ, 「死はその人の自己になる」(mrtyur asyatma bhavati) という表現は, 死が世界存在の淵源であることの端的な認識にほかならない。ウパニシャッドは, 人間存在が時間によって制約されている事実を実存主義的に解釈しようとしているのである。