著者
姜 徳相
出版者
神奈川大学
雑誌
語学研究
巻号頁・発行日
vol.7, pp.31-57, 1984
著者
高野 繁男
出版者
神奈川大学
雑誌
語学研究
巻号頁・発行日
vol.1, pp.107-144, 1978
著者
湯田 豊
出版者
神奈川大学
雑誌
語学研究
巻号頁・発行日
vol.5, pp.21-66, 1982

I, 4,1-5。アートマンによる世界創造が説かれている。アートマンは人間の形をしていたのであり, この人間としてのアートマンは自己をアートマン(夫)とその妻に分割し, 配偶となって人類を始め蟻に至るまで一対をなすものを創造した。世界創造が男女のセックスによってなされるという着想は極めて興味深いものがある。創造(srsti)に関して特記すべきことの一つは, 創造者と被造物の間にまったく区別のないことである。I, 4,6。アートマンは人間(=死すべき存在)であるにもかかわらず, 自己のなかから不死なるもの, すなわち, アグニ(火)およびソーマ(湿気)を始めとして神々を創造した。この創造はセックスによるそれと区別して「超創造」(atisrsti)と呼ばれる。I, 4,7-10。ここでは, アートマンが創造であるというよりも, むしろ万物に内在する全体的なものであることが説かれている。そして, それと並んでブラフマンが「この一切」(idam sarvam)であることも述べられている。すべての個別的なものは「名称と形態」であり, アートマンは全体的なものである。ブラフマンもまたアートマンと同じくsarvaである。I, 4,11-15。これらの箇所に関しては, ブラフマンによる世界創造がテーマである。ブラフマン(=バラモン階級)を始めとして, クシャトラ(=クシャトリヤ), ヴィシュ(=ヴァイシュヤ), およびシュードラの神的ならびに人間的な階級の創造が説かれている。そして, 王権をチェックするものとして, ダルマ(法)の重要性が強調される。I, 4,16-17。ここでは, ふたたびアートマンが主題になる。五大祭, すなわち, 神々, 聖仙, 祖先, 人間, および動物に対する奉仕によって, アートマンはすべての存在の生活領域になる。そして, このアートマンは心(manas)として, 自己の配偶者であることば(vac)の助けを借りて創造する。アートマンは心, その妻はことば, その子孫は息, その財産は眼と耳, その行為は身体である。しかし, アートマンは形而上学的な原理ではなく, 心, ことば, 息, 耳, 眼, および身体からなる。アートマンとは, 要するに, 広い意味での「行為」にほかならない。この行為と別にアートマンが存在するわけではない-atmaivasya karma(それの行為がアートマンである)!
著者
原 誠
出版者
拓殖大学
雑誌
語学研究 (ISSN:02866714)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.29-52, 2002-12-28
著者
湯田 豊
出版者
神奈川大学
雑誌
語学研究
巻号頁・発行日
vol.4, pp.49-83, 1981

I, 3,1-21。ここでは神々と鬼神たちの争いにおいて「口のなかの息」がウドギータとして鬼神たちを破滅させることが述べられている。人間の感覚器官の機能はすべて悪によって貫かれているけれども, 口のなかの息だけは悪によって貫かれず, 死を超えて存続している。I, 3,1-7において, われわれは口のなかの息がウドギータとして悪・死を滅する呪術性をもっていることを知っている。I, 3,8-21において, われわれはウドギータとしての口のなかの息が死を超えていることを確認することが出来る。口のなかの息, あるいは生気は, アートマンの先駆思想である。そして, この生気がウドギータであることを知る人は食物を食うようになると言われる。Ya evam veda(このように知っている人)は悪, すなわち, 死を征服するという思想が当該箇所のテーマである。I, 3,22-28。ここでは, サーマン(=ウドギータ)は生気として讃美されている。ここでもまた, サーマンを生気であると知っている人は願望を成就することが出来る。ウパニシャッドの特徴の一つは, 知識は力であるという思想である。しかし, それと並んで重要なことは, 不死への希望が認められることである。I, 3,28において, われわれは「わたしを死から不死へ導け!」という祈りがウパニシャッドの中心思想であることを認めなければならない。「わたしを不死にせよ!」(amrtam ma kuru)という祈りこそ, まさにウパニシャッドの理想である。
著者
湯田 豊
出版者
神奈川大学
雑誌
語学研究
巻号頁・発行日
vol.3, pp.121-156, 1980

I, 1,1-2。ここでは, 馬祭祀が問題になっている。馬祀祭に適した馬の頭はあけぼのであるという文句を始めとして, ここでは馬の身体の諸部分と自然現象・自然界との事物との同一視が説かれている。その際, 注意しなければならないことは, 馬と諸事物・諸事象が決して同一ではなく, 両者がある一点において共通していることが示唆されていることである。ここでは, AとBが同一であるということが述べられているのではない。AはBではない。AとBとは決定的に異なっている。ウパニシャッドは, AとBに共通した特定の項目を探求し, それを見いだそうと努めた。わたくしは, 若干のテキストおよびシャンカラの注釈に拠って, 初期ウパニシャッドにおける思考方法を明らかにしようとした。I, 2,1-7。ここでは, 馬祀祭との関連において, 世界の創造が説かれている。ここの箇所で真にユニークなのは, 「初めに」(agre) という表現である。世界の起源は, ここでは飢えとしての死である。死によって創造された世界は, 当然, 死自身から「流出」(srj) したのだから, 死によって制約されている。死にとって最高に特徴的なのは, 時間 (kala) である。われわれのウパニシャッドにおいては, 歳 (samvatsara) が時間の象徴である。すべての事物は死のなかから産み出され, 時の激流に棹さしている。世界存在は死をその本質としている。世界の起源は, 飢えとしての死のなかに求められる。死が人間存在の淵源であることを知ることが, ウパニシャッド的な認識である。それゆえ, 「死はその人の自己になる」(mrtyur asyatma bhavati) という表現は, 死が世界存在の淵源であることの端的な認識にほかならない。ウパニシャッドは, 人間存在が時間によって制約されている事実を実存主義的に解釈しようとしているのである。