- 著者
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川崎 衿子
- 出版者
- 文教大学女子短期大学部
- 雑誌
- 研究紀要 (ISSN:03855309)
- 巻号頁・発行日
- vol.46, pp.51-61, 2003-01
西洋社会の影響を受けたリゾートがわが国に成立していく過程は、鉄道を主軸とした交通網の発達に大きな影響を受けている。1872(明治5)年の東海道線の営業開始に始まり、1887(明治20)年には横浜・国府津間が開通、やがて1889(明治22)東京・神戸間が全通し、並行して他の交通機関の整備が進むと、それまで都市近郊にとどまっていた別荘地は鉄道沿線の各地に拡大した。避暑避寒や温泉保養、海浜保養を目的に外国人、政府高官などの上層階級、文人らの知識階級が集まる別荘地が多数出現し、それに伴いリゾート生活の規範がつくられていった。それらの発展史および別荘地類型、社会的背景については安島、十代田らによる研究が詳しい。 1898(明治31)年6月に茅ヶ崎駅が開設された。開設前々年の1896(明治29)年には、外科医・須田経哲が茅ヶ崎駅近くに別荘を建て、さらに続いて歌舞伎俳優の市川団十郎が小和田地区(現在平和町)に壮大な別荘を建設した。駅完成後は、宮内省、内務省などの高級官僚、政治家、軍人、学者などが現在の中海岸、東海岸方面に別荘を構えるようになった。以後明治末には既に200棟を越す別荘があったといわれる。 一方、後に戦前の最盛期には東洋一の設備をもつまでに発展した結核専門病院・南湖院が駅開設の翌年に開院した。南湖院の経営は都会の上層階級の患者を優待したことから、南湖周辺には、いわゆる文化人、富裕人が集まった。そしてこの存在は茅ヶ崎を単なる別荘地としてだけではなく療養地としての性格を広く印象づけることにもなった。 これらの動向は、人ロ6000人余であった旧来の農漁村・茅ヶ崎の社会経済に多様な変化をもたらした。その後も関東大震災、第二次世界大戦の影響を受け、茅ヶ崎の別荘の様相は著しい変貌を遂げていく。 本研究では茅ヶ崎の別荘地の開発過程とその特性を明らかにしつつ、明治・大正・昭和・平成にいたるまでの別荘の歴史的変遷を事例的に捉え考察を試みた。