- 著者
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堀越 孝一
- 出版者
- 学習院大学
- 雑誌
- 人文 (ISSN:18817920)
- 巻号頁・発行日
- vol.3, pp.179-253, 2004
1929年(新暦)の記事群が(494)の記事からはじまると判断したわけは、「前記の年、新酒の出来は」と妙ないいまわしが見られるからで、これは新暦で「昨年、新酒の出来は」と読む。ふたつめの記事(495)に「2月12日」と日付が見える。 「セルヴェーズ」はビールで、新暦で前年の10月の記事に、パリにビール醸造業者が30軒も店を出して、それでも足りなくて、サンドニやそこらからビール売りが大勢出張ってきたと書いている(487)。ブドウ酒が不出来だったからで、ましてや年明けで、ブドウ酒が不足し、ビールの消費量が増えて、消費税がかさんだと権兵衛は嘆いている。 暮らしが権兵衛の関心事で、「オルレアンの戦い」や「リエージュ戦争」のうわさを伝える権兵衛の文章に暮らしが影を落とす。(498)の記事がおもしろい。だからか、「このころ、人がいうには、レール川縁にひとりのプセルがいた」とジャーン・ダール登場のニュースを伝えながら、「大量の食糧を運んで」とか、「なにしろ食糧がたいそう不足していて、じつに3プランもするパンを食べていた」などと、なにしろそちらの方向に関心が流れる。(503)の記事である。 1929年の9月、「レザルミノー」が「かれらのプセルをともなって」パリを襲撃した。うわさの聞き手の権兵衛は実見者となる。(519)の長々しい記事である。 ここにいたるまで、「プセル」は権兵衛の関心の外で行動している。 当時ブルッへ在住で、おそらく商人の法律代理人の仕事をしていたヴェネッィア人が、父親に9通の手紙を宛てていて、5月10日付でオルレアンの陣の成り行きを報じておいて、第2信に、6月4日付ブルターンからの幾本かの手紙の紹介ということで、「ジェネタ・ポンッェラ」に触れている。ブルターンからの回船が積んできた手紙の束に入っていたのだろう。 ブルターン方面では、すでに「ジェネタ」、ジャネット(ジャーンの指小辞)の名が知られていたらしく、7月16日付の第3信と7月27日付の第4信は、王太子が「ポンツェラと2万5千を越す軍勢をひきつれて」、ランスに入り、大聖堂で王聖別の秘蹟を授かったことを報じている。 1429年の権兵衛の日記には「ジャーン」の名前と「ランス」が抜けている。人の名と土地の名が落ちている。「むすめ」はオルレアンから来た。「むすめ」は「なにしろレザルミノーに随伴する、ひとがラプセルと呼んでいる、これが何物かは神のみぞ知るだが、くだんの女の形をした一被造物」であった。This paper offers a collation and annotaton of the items through theγear of the new calendar 1429.The first itcm 494 contains no date. But the strangc phrase"de Ia dicte annee" means" 盾?@the last year of the new calendar". In thc item 495 the writer of the journal offers the date"lc xiie jour de fevrier". Consequently he wrote the item 494 in January or in early Februar}乙 The writer of the journal has a variety of interests in daily life. This kind of interests overshadowed the descr量ption of the rumour of the siege of Orleans or the Liege waL In thc description reporting the debut of''la puceUe"in the sicge of Orleans he inserts the phrase as"曹浮?@ung homme eust bien menge pour trois blans depain ason disner" Through the items of 1429 he doesn't can"la pucelle"jeanne or jeanette, He doesn't point out the ceremony of sanctifying the dolphin(in丘ench:dalphin)as the king at Reims. Another reporter as an Vとnetian who stayed in Brugge at that time mentioned the name "zeneta"in the lctter to、his father in Venice dated 10 May and reported that ceremony in the letter dated 27 july」For the writer of the journal"1a pucelle"is but one element in the description. He took note of her rumour, because he heard it. Early September he saw her verアclosely in the army raiding Paris. He described her closel}~beacause he saw her closely. He offers her presence in the record as he hears and sees her.