著者
松園 潤一朗
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.268-248, 2009-03

室町幕府の安堵の特徴として当知行安堵の実施が挙げられる。本稿では、安堵の様式の変化や発給手続について検討を加える。 南北朝時代以来、幕府の安堵は譲与・相伝等、所領・所職の相続・移転に基づく安堵が中心であったが、応永年間(一三九四〜一四二八)以降、特に足利義持執政期の応永二〇年代には当知行安堵の事例が増加し、応永二九年(一四二二)の追加法で当知行安堵の原則が定められる。安堵の事例を見ると、この原則は足利義教執政期以降にも継続している。また、足利義政期には当知行所領について当主が相続人を指名して安堵を受ける事例が増加する。 安堵の発給は、申請者の所持する証文に基づくことが多く、特に代々将軍の安堵の所持が重視された。室町時代には、寺社宛を中心に、目録に記載された当知行所領を安堵する事例が見られる。 当知行安堵の実施は、当知行保護の重視という室町幕府の所領政策の全体的な変化を反映したものと位置づけられる。In the medieval period of Japan,the authorities confirmed the land titles of the feudal lords, shrines, temples, and so on. This was called ando(安堵). This paper explicates the Muromachi shogunate's ando by examinating the style of its document. Earlier studies have already pointed out that ando based on the beneficiary's possession(called tochigyo(当知行)) is characteristic of the ando of the Muromachi shogunate. I attempt to make clear when its character appeaered, and how the Muromachi shogunate issued ando. The conclusion reached is that, since the period of the Northern and Southern Dynasties, ando had been issued in cases of succession or transfer of land, but in the Muromachi period, especially from the 20s of the Ouei era, ando came to be based on possession. In the process of issuing ando, the Muromachi shogunate regarded as important that the beneficiary had the former ando which had been issued by the Muromachi shogunate. This change style in ando means the Muromachi shogunate switched its policy to protect the order of possession.
著者
竹綱 誠一郎 齋藤 寿実子 吉田 美登利 佐藤 朗子 瀧沢 絵里 小方 涼子
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.10, pp.85-92, 2011

本研究の目的は、作文学力と算数文章題学力との関係を吟味することである。小学5 年生児童75 名を対象に、第2 学期に作文学力を測定するテストを実施し、第3 学期に文章題学力を測定するテストを課した。作文学力は5 つのカテゴリー(反論への考慮、段落構成、つながり、わかりやすさおよび論理性)ごとの下位得点の合計得点によって算出された。文章題学力は5 つの問題タイプ(通常問題、過剰情報問題、無意味問題、情報不足問題および不合理問題:通常問題以外は、不完全な文章題)ごとの得点の合計得点によって算出された。 分析の結果、2 学期に測定した作文学力と3 学期に測定した文章題学力との間に有意な相関がみられたことから、作文学力を伸ばすことが文章題学力を高める可能性のあることが明らかになった。また、論理性得点や反論への考慮得点の高い児童が、現実的で論理的な思考力を必要とする不合理問題において高得点を示すことも明らかにされるなど、教育実践への有用な示唆が得られた。研究論文
著者
島田 誠
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.105-130, 2006-03-25

本稿の目的は、『神アウグストゥスの業績録』の性格と目的を再評価することである。この『業績録』は、ローマ帝政を樹立した初代皇帝アウグストゥス自ら書き残し、現在のトルコ共和国のアンカラの「ローマと神アウグストゥスの神殿」の壁面で発見された金石文である。この金石文は、古代ローマ史研究者の間では、よく知られた史料であるが、多くの場合、そのテキストの一部がアウグストゥス自身の発言として引用されるに過ぎない。本稿では、この『業績録』を総体として捉えて、さらにローマ市のアウグストゥス墓廟の銘文として構想され、実際にはアンカラの神殿において発見されたことの意義を再考する。まず、この『業績録』の主要な資料である『アンキューラ記念碑』の発見と公刊の経過を確認した上で、『業績録』の内容を再検討し、この文章の種別(ジャンル)と想定されていた読者、さらにローマ市から遠く離れたアンカラにおいて、この『業績録』が発見された理由について論じる。 本稿での検討の結果、次の結論が得られた。この『業績録』は、ローマにおける金石文の伝統の中では、顕彰碑文の一種であるelogium にもっとも近く、前30 年から後14 年にいたる40 年間以上にわたって、ローマ政治を支配し、事実上、新しい支配体制を築き上げたローマ史上比類なき政治家の執務報告でもあった。『業績録』の読者としてアウグストゥスが念頭に置いていたのは、ローマ市大衆(plebs urnbana)を含む、ローマ市民に限定されていたと考えられる。ところが、同じ『神アウグストゥスの業績録』が、ローマ帝国の別々の場所においてそれぞれ異なった役割を果たしていたのである。アウグストゥスの『業績録』は、ローマ市をはじめ、ローマ市民の住む都市においては、市民たちにとって稀有の功績をあげた第一市民の執務報告であり、その功績に対して元老院やローマの市民たち(民会)が献じた顕彰碑文であったが、属州の小アジア(アナトリア地方)のガラティア人都市おいては、世界を征服した支配者の神格化を示す宗教的な文書と見做すことができる。
著者
増山 浩人
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.18, pp.137-162, 2020-03

2017年11月9日、ノーラ・ゲーデケ博士は招待講演「ライプニッツと彼の文通」を学習院大学人文科学研究所にて行った。本稿はその招待講演の日本語全訳である。周知のように、ライプニッツは同時代の学者の中でも最も広範な書簡作品を遺した。彼は約1300 人と文通をし、彼が取り交わした手紙の総数は約20000 通にも上る。通常、彼は文通によって主にニュートンなどの遠隔地に住む同時代の有名学者と学術討論を行っていたと考えられてきた。これに対し本稿では、ライプニッツの書簡の定量分析によって以下の二点が示される。1)彼の文通のかなりの部分がハノーファーやその近郊の諸侯や教授たちとの交流のために行われていたこと、2)彼が学術討論だけではなく、情報収集のためにも文通を行っていたこと。以上の議論を踏まえ、本稿はライプニッツ書簡の研究がバロック時代の手紙文化と学者の共和国の実態を解明する手がかりになることを明らかにした。
著者
宮山 昌治
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.83-104, 2005

ベルクソンは多くの日本の文化人に大きな影響を与えた哲学者である。ベルクソン哲学は日本では1910 年に紹介されたが、紹介後すぐに翻訳や解説書が多数刊行されて、〈ベルクソンの大流行〉を引き起こすに至った。ベルクソンは一躍日本の思想界の寵児となったのだが、この流行は足かけ4 年で終わってしまう。なぜ、流行はあっさりと終わってしまったのか。その原因として挙げられるのは、ベルクソン受容における解釈の偏りである。 そもそも、ベルクソン哲学が受容される以前の日本のアカデミズムでは、新カント派の認識論が主流であり、「物自体」を直接把握しようとする形而上学は避けられる傾向にあった。だが、このアカデミズムに対する抵抗として、論壇ではしだいに形而上学を復興させる動きが盛んになり、ベルクソン哲学が大いに注目を集めた。ベルクソン受容では、『試論』の「持続」と「直観」、『創造的進化』の「持続」の「創造」が紹介された。すなわち、「物自体」を「持続」と捉えて、それは「直観」によって把握できるものであり、かつ「創造」性を有するものだと言うのである。ところが、これはベルクソンの紹介としては偏ったものであった。そこには、『物質と記憶』の「持続」と「物質」の関係がほとんど紹介されていない。それは、ベルクソン受容が唯心論の立場をとっており、唯心論では「物質」は排除すべきものでしかなく、「持続」と「物質」の関係を説明することが困難だったからなのである。 しかしそれでは、「持続」が「物質」のなかで、いかにして現実に存在するかを問うことができず、「持続」は観念でしかなくなってしまう。結局、ベルクソン受容は唯心論の枠組みの外にある現実存在するもの、すなわち「物質」や、ひいては「他者」についても論じることはできないということになり、ベルクソンの流行は一気に衰退に向かった。だが、その後の唯物論の隆盛は、ベルクソン受容が先に「物質」や「他者」の問題に直面していなければ、存在しないものであったし、さらに新カント派の変形である大正教養主義も、新カント派とベルクソン受容の対決を経て生まれたものであった。したがって、大正期のベルクソンの流行は日本の思想史において、きわめて重要な意味をもつ〈事件〉であったと言えるのである。In Japan, the philosophy of Henri Bergson was first introduced in 1910. From 1912, many books and papers discussed Bergson, and his philosophy came into vogue. At that time, the Japanese philosophical society maintained the epistemology of Neo-Kantism and refused to acknowledge "Ding an sich(" the thing itself),which metaphysics had tried to grasp immediately. Bergson insisted on acceptance of "Ding an sich" by "intuition", so the people who rejected Neo-Kantism enthusiastically agreed with him. But the vogue come to an end around 1915, and publicity about Bergson disappeared rapidly. The vogue declined because of the interpretation that Bergson's philosophy favored "Idealism" based on the pan-conscience. As that interpretation was ineffective at treating "matter" and "the Other", Matière et Mémoire(Matter and Memory)studied the matter hardly received attention during this time. The partial interpretation brought the vogue to a crisis Though the vogue declined, the prosperity of Materialism and Socialism that lasted through the 1920s didn't exist without the vogue had revealed the fault of "Idealism". Therefore, Bergson's significance in the history of modern Japanese thought cannot be overlooked.
著者
坂田 充
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.293-330, 2007

本稿は、学習院大学が所蔵する高松松平家旧蔵書についての調査報告である。まず、学習院大学図書館所蔵図書のなかから、蔵書印などを手がかりにして34 部2, 905 冊を特定し、その目録を作成した。あわせて、関連機関の記録などをもとに、本来それらは最後の高松藩主松平頼聰から華族会館に寄贈されたものであり、後に華族会館が学習院を創立するのにともなって学習院に引き継がれた経緯を明らかにした。 その書籍は伝統的な和漢の典籍から成っており、とくに良質な漢籍を多く含んでいる点に大きな特徴があって、水戸学の影響を受けて盛んであった高松藩の学問と蔵書の状況を物語る貴重な資料と言うことができる。また、華族会館旧蔵書の一部という観点から考察することによって、明治初年に模索された華族教育の様相を解明する資料ともなり、同時に草創期における学習院の教育・蔵書の様相を物語る重要な書籍でもあることを指摘した。This paper is a report on the collection of books of the Takamatsu Clan(高松藩)in the library of Gakushuin University. The ownership stamps of those books and some documents show that those books were formerly owned by the Takamatsu Clan, and then gifted to Kazoku-Kaikan(華族会館)by Mr. Yoritoshi Matsudaira(松平頼聰), the feudal lord of the domain of Takamatsu. The number of the books amounts to two thousand nine hundred and five. Almost all of the books are classics of China and Japan. Some of the Chinese books especially are very precious. From the collection, we can get an understanding of the scholarship and education of the Takamatsu Clan in the Tokugawa period, as well as knowledge about the learning of Kazoku(華族), the aristocracy, in the period when modern Japan was emerging.
著者
神田 龍身
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.15, pp.222-203, 2017-03-01

平安時代の西暦九百年前後には、『竹取物語』『古今和歌集』『土佐日記』等の仮名文字テクストが相次いで成立する。そして、それを受けて、『うつほ物語』『源氏物語』『狭衣物語』等がさらに登場してくることになる。漢文テクストというエクリチュールが正統の言語状況下にあって、このような仮名文字テクストとは何なのか。仮名が表意文字ではなく、音声還元主義の言葉であることから、これはパロール(音声言語)の問題をぬきにしては考えられない。しかし、仮名も文字には違いないのであり、この仮名という視覚を媒介した音声なるものは音声それ自体ではない。また漢文テクストも音読されたり、演説の言語として使用されたりして、パロールとしての言語空間を構成することもある。ジャック・デリダの「原エクリチュール」という概念を参考にして、平安時代の仮名テクストをめぐって、西洋とは異なる日本固有の「パロール/エクリチュール」の関係構造を考えてみたい。 Texts written in kana, such as the Taketori Monogatari, Kokin Wakashū and Tosa Nikki, came into being one after another around 900 in the Heian Era. Influenced by those texts, the Utsuho Monogatari, Genji Monogatari and Sagoromo Monogatari followed. What is the meaning of the kana literature in a context in which Classical Chinese was the authoritative written language? It is impossible to answer this question without consideration of parole (spoken language) because kana characters are not ideograms but phonograms. They, however, must be characters; thier sound through the sight is not the voice itself. In contrast, Classical Chinese can bring the language space as parole by means of reading aloud or using as a speech. Referring to the concept of "archi-ecriture" presented by Jacques Derrida, this paper examines the relationship of parole / ecriture in the kana texts of the Heian Era, which is charateristic of Japanese language and differs from Occidental ones.
著者
家永 遵嗣 水野 圭士 林 哲民 タトヤン ディミトリ 小口 康仁 野里 顕士郎 熊谷 すずみ 安達 悠奈
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.17, pp.157-189, 2019-03

標題の史料を翻刻・提示し、主な問題点三点について解説した。 第一に、清原良賢が足利将軍家に奉仕するようになる契機が、持明院統の皇位継承争いのなかで、義満が良賢を後円融上皇・後小松天皇の支持者として固定しようとしたことにあったこと。第二に、標題の史料から、永徳元年に義満が編成した家政機関の政所別当一五名・侍所別当一〇名を特定でき、弁官系諸家を糾合することで崇光上皇の院政を阻止する布石であったとみられること。第三に、成立期の「室町殿」に「障子上」「侍所」が設けられていたことから、室町殿における公卿の家礼と殿上人の家司との意思疎通と連繫が窺い知れること。以上、標題の史料の重要性について解説した。|These three documents are related to Ashikaga Yoshimitsu’s “Ninnkai Daikyou,” a celebration banquet for taking up the third ministe “NaiDaijinn,” in Eitoku 1(A.D. 1381). From these three documents, we can know about Ashikaga Yoshimitsu’s “Kugeka,” becoming a ruler over the royal court. In those days, the “Hokucho” royal court was struggling for the royal throne. One was a descendant from Gokougonn Tennou, the other was Sukou Jyoukou, the elder brother of Gokougonn Tennou, and his son Yoshihito. Ashikaga Yoshimitsu was a nephew of Gokougonn Tennou. Therefore, Ashikaga Yoshimitsu supported Goennyuu Tennou, the son of Gokougonn Tennou, in cooperation with Nijyou Yoshimoto, a man of power in the “Hokucho” royal court. In preparing the “Ninnkai Daikyou” banquet, Yoshimitsu took talented court nobles as his manservants, such as Kiyohara Yoshikata, the original author of “Shoninndaikyouki”. Therefore, Sukou Jyoukou lost his power in the royal court. Then Gokomatsu Tennou, son of Goennyuu Tennou, was able to take the throne in Eitoku 2(A.D. 1382). These three documents reveal 25 people who bacame Yoshimitsu’s manservants. A transcriptor commented on each person’s kinship and the relationship between each person and his masters. And these three Documents reveal the location of the “Shoujinoue” and “Samuraidokoro,” the offices of the manservants, in “Muromachidono,” the palace of Ashikaga Yoshimitsu. They suggest the way in which Yoshimitsu came to understandings with his retainers.

9 0 0 0 OA 人文 第63号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.1-61, 2016-06-30

[随想]研究所本館移転の思い出 / 水野 直樹 [1]
著者
安部 清哉
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.9, pp.7-33, 2011-03-28

This paper will examine features related to the geographical distribution of Japanese adjectives used to express sense of taste, including Amai, Karai, Suppai, Nigai, and others, that are problematic in a historical linguistics context pertaining to the roots of Japanese language. In particular, it has been proven that the etymology of“ *sukwa-shi( <suppa-i, <sukka-i)” in the East-Japanese dialect, Chinese “酢”, and “*sem” of Proto-Austronesian (PAN) language have the identical root and origin, and that the etymology of“ su-shi( < su-i)” in the West-Japanese dialect is Chinese“ 酸”. It has also been demonstrated that the roots of these adjectives have the same origin in Asian Language. In addition, by examining the etymology of these adjectives, this paper will describe that a cross structure composed of four words is the prototype lexical structure of Japanese basic adjectives. Keywords: geographical distribution, Japanese adjectives, sense of taste, Amai, Karai, Suppai, Nigai, etymology,“ *Sukwa-shi( <suppa-i, <sukka-i)” as for sour,“ Su-shi( <su-i)” as for sour,“ 酢”,“ 酸”, prototype structure, basic adjectives.
著者
有賀 夏紀
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.18, pp.166-180, 2020-03

本稿では天野山金剛寺蔵『龍王講式』を題材に、本講式がさまざまな領域の言説を複合的に取り入れながら形成されたことを論じる。『龍王講式』は、延慶三年(一三一〇)の「請雨」に際して金剛寺で書写された旨を記すことから、実際の祈雨儀礼と結びついたテキストだと考えられる。分析の結果、本講式には『釈摩訶衍論』と、その注釈書に基づく叙述が多く確認できた。これは中世金剛寺教学の柱に『釈論』があったこととも合致しており、本講式が鎌倉後期から南北朝期の『釈論』をめぐる注釈活動と連動しながら編まれたことが明らかになった。また東密の修法である「請雨経法」の思想や世界観、儀礼の手順や解釈を示した次第書の言辞も色濃く反映されている。『釈論』やその注釈書、請雨経法の所依となる経典や次第書、そして神泉苑における空海の祈雨伝承など、隣接領域を横断しながら作成された『龍王講式』には、中世真言宗寺院における学問や儀礼の有様が映し出されているのである。
著者
増田 靖彦
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.81-101, 2007

サルトルが日本に受容されるに当たっては、いくつかの困難が存在した。彼の多様な執筆活動に対応しきれない日本のアカデミズムの構造や、第二次世界大戦という世界の特殊な状況などがそれに当たる。 そうした困難を克服しつつ、サルトルの受容はまず作品の素描や翻訳から始まった。その蓄積はやがて、サルトルの作品を総体として論じる試みとなって現れる。その嚆矢となったのが、サルトルをフッサール現象学に基づいた自我の問題提起として読解する研究であり、自己と他者の関係を基礎付ける人間学として読解する研究であり、今日の人類が抱える思想的課題と格闘する文学者として読解する研究であった。これらの研究はいずれも、サルトルの思想家としての側面に焦点を当てていることが特徴的である。 しかし、サルトルの作品における形式及び内容の変化と、行動する知識人というイメージの流布とによって、そうした研究動向にも転換の時期が訪れる。日本におけるサルトルの受容はもっぱら実存主義者サルトルを前面に押し出すようになっていくのである。This paper tries to clarify how Sartre's thoughts came to be known and studied in Japan. At the time they were introduced into Japan, there were two main difficulties: the subdivided organization of special studies in Japanese academia and the grave situation of the world during World War II. The introduction of Sartre into Japan began with the sketch or translation of his works. These efforts easily made it possible to treat the works of Sartre as a whole. An assortment of studies appeared such as those which discussed his thoughts on the problematic of ego based on Husserlian phenomenology, those which concidered his thoughts as an anthropology founded on the relationship between the self and the other, and those which considered him to be a man of letters tackling every kind of task important for the modern human. Each one of these studies focused on the thinker in its own characteristic way. However, as Sartre altered the form and content of his works, and was held in high reputation as the intellectual who acts, the studies on Sartre gradually began to move in another direction. They came to project Sartre as an existentialist in the foreground of their interpretations.

7 0 0 0 OA 人文 第47号

出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:0389147X)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.1-56, 2000-03-31
著者
伊藤 真梨子
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.17, pp.115-152, 2019-03

本稿では一見近代化との関係が強いようには見えない漢字語基の中にも、日本の近代化に伴いその使用が増大し定着していったものがあることを提示した。具体的には、「特」を含む二字漢語について初出年代を調査し、「特」語彙が大きく増加した時期が幕末から明治10 年(1854~1877)の間であることを示し、この時期が初出である27 語のうち半数以上が現在もよく通用するものとして残っていることを明らかにした。また、「特」が後項にくる二字漢語は7 語と少なく、大正時代以降が初出のものはないことも確認した。次に、「特」語彙が持つ意味を、「(1)雄牛。(2)つれがない。ひとり。(3)すぐれている。(4)他とは異なる。」に分け、「特」が元々持っていた(1)の意味の二字漢語は日本では使用されず、(2)~(4)の意味はいずれも近世以前から見られることを示し、(4)の意味を持つ語が全体の7 割以上を占めどの時期でも多いこと、(2)の意味を持つ語は少なく、第二次大戦後が初出のものはないこと、(3)の意味を持つ語は幕末から第二次大戦まではある程度の数が見られたものの、初出例が戦後の語は1 語のみであることを確認した。| This paper offers that one type of base which does not seem to have a close relationship with modernization came to be used more and to take root in the society along with the modernization of Japan. In other words, it examines the year in which Sino-Japanese vocabulary made from two Chinese characters with "toku"(特)(hereinafter called "toku vocabulary")appeared for the first time, indicates that toku vocabulary increased greatly from 1854 to 1877, and clarifies that more than half of all 27 words which appeared in this period are still used now. Moreover, it confirms that there are only 7 words in which 特 is the last character, and that there were no new words introduced after the Taisho period. Next, this paper classifies the meaning of toku vocabulary into(i)bull(ii)alone(iii)superior(iv)different from others. This indicates that toku vocabulary in(i)is the oldest meaning and is not used in Japan, and that (ii)┉(iv)have been in use since the pre-modern period. In addition, it is confirmed that the words in(iv) account for more than 70% of words in all times, words in(ii)are few and there have been no new words since the end of World War II, and while some words in(iii)have been seen from the end of the Edo period to World War II, there is only one word that first appeared after the war.
著者
富澤 萌未
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.18, pp.182-196, 2020-03

『源氏物語』には、一人称的な固定化した視点というものでは捉えきれず、語りの位置が不安定で流動的になっている場面がしばしば認められる。このような文章の特徴については先行研究でもさまざまに論じられ、議論が深められてきた。しかし、このような語りが生じる機構について日本語の特徴を捉えて言及しているものはほとんどない。本論では、現代の学校文法でいう形容詞、形容動詞が主客未分化な特徴を持っているために、語りの中に登場するとその語りの位置が不安定になることを指摘する。
著者
末森 明夫 高橋 和夫
出版者
学習院大学人文科学研究所
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.14, pp.137-148, 2015

「高宗諒陰三年不言」論争は服喪説と非服喪説が主流を占めてきたものの、非服喪説においても疾病説は等閑に付されてきた。本稿では障害学的視座に立脚し、疾病説(言語障害・聴覚障害)の再検証をおこなうと共に、文献に見られる「作書」という文脈に意志疎通手段における障害学的見解を照射し、「三年不言」という文脈の解釈における外延を図った。本稿の眼目は疾病説の妥当性の主張にはなく、疾病説が論争の傍流に甘んじてきた背景を障害学的視座に立脚して再検証し、論争の主流を占めてきた訓詁学と疾病説の派生的連続性を前景化し、古代中国文献学や古代中国福祉体系の探求に資することにある。 There has been controversy about the word "ryôin (諒陰)" and the sentence "Kôsô did not speak for three years( 高宗三年不言)" in a Chinese historical passage, as many hold the opinion that Kôsô had been mourning or deliberating apolitically; however, another opinion has been neglected, namely, that Kôsô was only temporarily mute. We therefore re-examined thise controversial issue from the viewpoints of speech impairment and/or hearing impairment based on disability studies, suggesting the derivative continuity between the opinions based on disability studies and exegetics of the passage, and contributing studies on welfare in ancient Chinese society.
著者
丸亀 裕司
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.27-47, 2018-03

本稿の目的は、帝政成立前後のローマ人著作家が「インペリウム」をどのように認識していたかを明らかにし、公職者の権限や職務の性質に関する現代の研究者の理解を批判することである。インペリウムは、都市ローマの外側「ミリティアエ」では軍隊指揮権であり、都市ローマの内側「ドミ」では高位公職者の職務権限だったと考えられてきた。しかし近年、公職者の職務権限は職務内容によって「ドミ」と「ミリティアエ」によって区別された、また、インペリウムは軍隊指揮権であって高位公職者の職務権限ではなかった、とする研究が出されている。こうした先行研究に対して、筆者は、共和政末期以降のローマ人著作家は「インペリウム」を高位公職者の職務権限を含む権限として認識していたことを確認した上で、ケントゥリア民会に注目し、「ドミ」と「ミリティアエ」の間に領域的にも機能的にも明確な境界を引くことはできないと主張した。The aim of this paper is to clarify how the Romans viewed imperium and to criticize modern scholars' understanding thereof. It has long been believed that imperium encompassed not only command outside the city of Rome (militiae) but also the authority of the higher magistrates (consuls and praetors) inside the city (domi). However, recent studies show that the authority of the high magistrates were divided into domi and militiae by the qualities of the tasks (civil or military, respectively) they took, not by the place in which they were located (in- or outside Rome), and, moreover, that imperium was simply military command and not a civil authority of high magistracies. In this paper, focusing on the Romans' descriptions of imperium and comitia centuriata, I assert that the Romans regarded imperium as the strong power of the higher magistrates, including military and civil authority, and that they had no clear distinction between domi and militiae which, as modern scholars have considered, divided the tasks of the magistrates in both the territorial and functional sense.
著者
広瀬 淳子
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.149-184, 2009-03

学習院大学図書館書庫には『華族会館寄贈図書目録』が眠っていた。この中の寄贈者欄に「徳川家寄附」とあるのに着目したのをきっかけとして、徳川宗家旧蔵書の学習院への伝来の経緯と、その事実が現在まで伝わらなかった理由を解明した。 華族会館は設立当初、図書館の創設を計画していた。幹事尾崎三良が勝海舟に協力を依頼し、それを受けて明治8 年7 月10 日、徳川宗家は華族会館へ和漢書約1,100 冊、洋書1,000 冊余りと2,000 円を寄附した。2 年後の明治10 年、華族会館は学習院を設立し、収集した図書のほとんどを学習院に寄贈した。そして明治16 年に学習院に建設された図書縦覧場は「縦覧場は本院の職員教師生徒及び其他華族の縦覧する処とす」と規則にあるように教師・生徒だけでなく華族のための図書館でもあった。 上記事実は『勝海舟日記』『華族会館誌』『尾崎三良自叙略伝』等、維新後100 年余を経て刊行された明治初期の記録類のなかで語られていた。蔵書伝来の経緯は当時の流動する政治状況を反映していた。The Gakushuin University Library owns books which formerly belonged to the Tokugawa Shogunal Household. How the present author discovered this fact and why it was unknown to this day are described in this report. Kazoku Kaikan, or The Peer's Club, established in 1874, planned to have its own library. Ozaki Saburo, the manager of the club, visited Katsu Kaishu for help. Katsu replied that he would make efforts. On 10 July 1875, his former master, Tokugawa Iesato, contributed 1100 Japanese and Chinese books, over 1000 books in Western languages, as well as 2000 yen to Kazoku Kaikan. In 1877, Kazoku Kaikan founded Gakushuin, the Peers' School, transferred its book collection, and became Gakushuin Library client. The library collected books for teachers and students, as well as for peers, future members of the House of Peers. The author found these facts in Katsu Kaishu's diary, published between 1972 and 1974; in Kazoku Kaikan-shi, published in 1986; and in Ozaki Saburo's memoirs, published in 1976 and 1977. All items came out more than a century after the Meiji Restoration. The victors governed for a long time and delayed the publication of their records. During that time, with limited information, we were unable to know what took place after the Restoration. This library collection reflects various scenes of the early modern history of Japan.
著者
吉村 研一
雑誌
人文
巻号頁・発行日
no.16, pp.292-278, 2018-03

『源氏物語』五四帖は誰の手によって書かれたものであろうか。匂宮三帖、とりわけ竹河巻は古来より他の巻とは別筆ではないかと疑われてきた。最近ではこの論争は沈静化されているが、本稿では敢えてこの問題に取り組んでみた。 研究史の中には物語内の語彙の用法に着目して、その用法の違いを分析することにより、別筆説を導き出そうとする作業もあるが、本稿は語彙そのものに焦点を当てた。﹃源氏物語﹄は、その場の自然の状況や登場人物の心の動きなどを表現するために、実に多彩な複合語を駆使していて、それらの複合語は源氏以前には用例のない源氏固有の造語が多い。これらの固有語を調べ出して、その造語方法の特徴や巻ごとの分布などを把握して、竹河巻の語彙と比較した。果たして別筆の可能性はありやなしや。Many researchers of The Tale of Genji have long suspected the writer of "Takekawa" could not be Murasaki Shikibu, because the writing style in "Takekawa" is poor and childish, and the story of "Takekawa" is not possible. Recently, students of Genji have chosen not to take up this question because of the difficulties involved, but, in this paper, I attempt to answer this question by examining special words, namely, those words that were not found in The Tale of Genji. Murasaki Sikibu created many new words in The Tale of Genji. In this paper, I find all of the special words in Genji and compare them with the special words of "Takekawa". In doing so, I am convinced that this is an innovative way of dealing with the problem of identifying the author of the latter.