著者
荻野 晃
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.59-72, 159-160, 2002-03-31

このペーパーの目的は、1956年11月のハンガリー事件の後、社会主義労働者党第一書記カーダール・ヤーノシュがどのように党内基盤を固めたかを探ることにある。冷戦終結後にハンガリーの公文書が公開されると、ハンガリー事件当時の首相ナジ・イムレの裁判が、戦後史の見直しにおける重要な争点となった。ハンガリー事件の最中に一党支配の放棄、ハンガリーのワルシャワ条約機構脱退と中立化を宣言したナジは、最終的に1958年6月に処刑された。筆者は近年の研究動向を踏まえながら、ナジ問題とカーダールを中心とする社会主義労働者党中央委員会の発足との結びつきを検証する。56年11月4日のソ連のハンガリーへの軍事介入の後、カーダールが政権を握った。成立当初、カーダール政権は困難な状局に直面した。軍事介入の直後、ナジと彼の同僚たちがブダペシュトのユーゴスラヴィア大使館に避難し、カーダール政権への支持を拒否したのである。ナジの処遇は、社会主義労働者党内部における国内政治の路線をめぐる論争の争点の一つになった。ソ連型社会主義制度の改革を意図する党内の穏健派は、国内の安定化をはかるためにナジや反体制派との妥協を意図した。それに対して、早急に一党支配体制の再建をはかるカーダールを含めた強硬派には、秩序の回復のために反体制派に対して強硬姿勢でのぞむ用意があった。実際に、カーダールはソ連によるナジの身柄拘束に協力した。ナジが社会主義労働者党との妥協を拒否した時、カーダールと彼の協力者たちは、ソ連の圧力にかかわりなく、自発的にナジを反革命の罪で起訴する方針を固めた。カーダール自身、国内改革の必要性を認識していた。しかし、カーダールはナジに強硬姿勢を取ることで、改革よりも社会主義体制を強化することを優先させた。カーダールはナジを葬り去ることなしに、一党支配体制を堅持した彼自身の穏健な改革路線を確立できないと判断した。さらに、ナジの起訴の決定後、ナジとの妥協に固執した穏健派は、党中央委員会から排除された。57年4月の社会主義労働者党暫定執行委員会(政治局)によるナジの起訴の決定は、ソ連の軍事介入後のハンガリーにおける社会主義体制の再建とカーダールのリーダーシップの確立へ向けた重要なターニング・ポイントになった。カーダールがナジの急進的な改革路線との連続性を絶った時、カーダール時代が始まったのである。

言及状況

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ハンガリーでは第二次世界大戦前に社会主義化したものの上手くいかなかった経験があります。 そのため2度目の社会主義化にも拒否感があった。 またオーストリアが占領から解放されて「西側(ヨーロッパ)に復帰した」ことから、ハンガリーは「次は自分たちだ」と言う期待がありました。 (ハンガリーにとって東側は非ヨーロッパという意識だったらしい) しかしハンガリーは東側に残されソ連兵も駐留したままとなり、 ...

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こんな論文どうですか? ハンガリーにおける「旧体制の復活」とナジ・イレム問題(1956-1957)(荻野 晃),2002 http://t.co/evy1MDbR

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