- 著者
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越野 剛
- 出版者
- 日本スラヴ・東欧学会
- 雑誌
- Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
- 巻号頁・発行日
- vol.21, pp.43-56, 2001-03-31
ドストエフスキーの作品における人間の心理描写は、フロイト流の精神分析の視点からアプローチされることが多い。しかし作家と同時代の精神医学が創作に与えた影響の方が歴史的には重要である。F.A.メスメルを創始者とする動物磁気説(後の催眠術)は、19世紀にすでに人間の無意識の現象を発見しており、ロマン派の文学や自然哲学に大きな影響を与えた。ドストエフスキーはK.G.カールスの無意識論やホフマン、バルザック、グレチ、V.オドーエフスキー等の文学作品を通じてメスメルの説を知っていた。当時の文学作品に特徴的な催眠術のモチーフは、催眠状態における幻覚や無意識の行為、そして視線の持つ磁気的な力のふたつであった。その点でドストエフスキーの初期作品のひとつ、『主婦』は分析の対象として最もふさわしい。『主婦』のプロットの中心は、3人の主要登場人物、オルドゥイノフ、カテリーナ、ムーリンの間の視線による心理的闘争である。中でもムーリンは邪悪な眼差しの描写で際立っている。ムーリンが催眠術師の役割を担っているとするなら、無意識のままに行為し幻覚を見るオルドゥイノフは催眠をかけられやすいタイプといえる。ただし3 人の力関係は一方的なものではなく、しばしば逆転し、互いに催眠術をかけ合っていると見なすことができる。同じような構図は『白痴』のムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージンの関係にも当てはまる。19世紀の中頃、催眠術はオカルト的な傾向を批判され、医学者からは敬遠された。ドストエフスキーは『主婦』や『白痴』の中で、そのモチーフは明かであるにもかかわらず、催眠術の用語を直接には使用していない。一方で『分身』や『虐げられた人々』ではそうした言葉が必ずコミカルな状況で用いられ、テキストにロマン主義文学のパロディーという性格を与えている。ドストエフスキーは催眠術(動物磁気説)のテーマを慎重に扱いつつも、実証主義的・唯物論的な同時代の医学では見逃されるような人間の深層心理を描写する手段として重視していたのである。