- 著者
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鈴木 亘
- 出版者
- 一般社団法人日本建築学会
- 雑誌
- 日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
- 巻号頁・発行日
- no.257, pp.119-129, 1977-07-30
- 被引用文献数
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1)康和2年(1100)および保元2年(1157)に再建された平安宮仁寿殿は, ともに母屋(桁行七間・梁行四間)の四面に庇を付けた東西九間, 南北六間の平面規模をもつ建物と推察される。このうち南・北両庇は孫庇の形式であり, 架構上, 仁寿殿は七間四面(桁行九間・梁行四間)の主屋に南・北両面孫庇を付けた形と考えられる。屋根は桧皮葺入母屋造りで, 特に四隅の庇は角庇の形式とし一段低い屋根をかけていたらしい。『大内裏図考証』に考定されている平安宮仁寿殿の規模, 形態は康和・保元両度の仁寿殿に大略認めることができるが, 母屋(桁行七間・梁行四間)部分の平面構成は後者と大分異なる。『大内裏図考証』には仁寿殿の母屋中央一間に南北行の馬道を考定している。しかし, 管見ではそれを裏付ける史料は認められなかった。むしろ平安後期の記録によると, 康和・保元両度の仁寿殿は母屋中央に桁行三間・梁行四間の広さをもつ大室がとられ, それを中心に母屋部分は東西に大きく三つの隔が構成されていたと考えられる。中央の大室は南面南庇との境に妻戸三戸, 東西両面に妻戸および連子窓(壁上連子), 北面に妻戸および壁をたてていた。また大室東側の母屋桁行二間・梁行四間部分は妻戸などをたて一室を構成していたと思われる。大室西側の母屋桁行二間・梁行四間部分は中央に方二間の室を設けていた。この室は南面に格子をたて, 北面を壁とする。方二間の室の南側二ケ間は観音供の本尊を安置した念誦堂と推定される。なお, 康和・保元両度の仁寿殿は母屋に天井を張っていた。また母屋の内部一間毎に柱をたてていた可能性がある。2)康和・保元両度の仁寿殿にみられる平面規模および形態は, 基本的に, 応和1年(961)再建の平安宮仁寿殿にも認めることができる。応和以後の平安中期に再建された平安宮仁寿殿の建築については資料を欠いている。ただし, 天徳以後の度重なる平安宮内裏の造営において殿舎の数または殿舎寸法の高大を減ずべきこと, あるいは造営の過差を制すべきことが議せられたのは長保3年(1001)罹災後の内裏造営の時である。平安宮内裏の建物には, その後の再建造営において規模の変更が伝えられるものがある。けれども, 仁寿殿については応和および康和・保元の各期の建物にほぼ同一の平面規模と形態が認められるので, 平安中期の仁寿殿は前期の規模, 形態をほぼ踏襲して再建されたと推測される。なお, 平安中期までの平安宮仁寿殿は母屋に天井が張られなかったらしい。