著者
浅沼 アサ子
出版者
東京家政学院大学
雑誌
東京家政学院大学紀要 (ISSN:02866277)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.13-22, 1982-12-20

昭和16年から終戦までの女子中等教育制度の大改革は昭和18年1月の「中等学校令」によるもので,性別と普通教育,実業教育を問わず皇道の道による国民精神の養成と,国民としての中等教育による錬成の二つの柱に統一されたのである。このことは女子中等教育にとって「婦徳の涵養」に優先して男女共通の教育目標が定められたことであり,また従来の実業教育にとっても,産業重視の施策によって教育目的の上で同格となったのである。このうち高等女学校の教科は国民科,理数科,家政科,体練科,芸能科の基本教科と修練とし,増課教科を加えた。家政科は従来の「家事」を家政,育児,保健と分化し,「裁縫」を被服として衣生活を総合的に扱い,すべて戦力増強につなげたところにこの改革の特色がみられる。次に実業教育では,昭和18年1月の「実業学校規定」で教育を産業の実際に適合させ,女子には婦徳の涵養も付加された。教科は国民科,実業科,理数科,体練科芸能科及び女子に家政科を加え,修練との二つの柱によって構成された。このような改革の中で農村及び家庭生活の向上に直接関係ある家政科が重視され,教育課程が地域の実状によって弾力的に運営された。また商業教育はその目的を転換して軍需生産経営従事者を養成し,女子は男子に代われる職業人と皇国女性育成のため,女子商業教育は奨励された。次に学校教育における戦時非常措置については,戦時体制下の要員の補給を急ぐため,昭和18年4月から中等学校の修業年限5年が4年に短縮され,同20年度からは学校の授業は停止された。また学徒の勤労動員等については18年6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が発せられ,女子では食糧増産,幼稚園保育所,共同炊事場の設置,保育に従事し,報国団を結成,通達により育児,保健,理数科,実業科が重視された。同19年3月「決戦非常措置要綱」が発せられ,食糧増産,工業作業,学校の工場化により作業場は「行学一体」の道場と化した。学校工場に関する当時の記録によれば1か月の勤労日数は27日〜29日で報償金は月額25円〜40円であった。同20年3月「決戦教育措置要綱」が発せられ,初等科を除き4月1日から1か年学校の授業は停止することになった。同5月「戦時教育令」が公布され,学徒隊,連合隊を組織し,戦時即応態勢を取ることになった。看護教育に関する非常措置については,同18年12月「女子中等教育卒業者ニ対スル看護免許ニ関スル件」の通達が発せられ,同19年1月「女子中等学校ニ於ケル看護ニ関スル件」通達で女子の特性により戦時救護に従事させるため,既設施設を活用し,修練の時間に看護手技等を習熟させ,看護婦の免許が付与されることになった。昭和13年3月「国民総動員法」が制定されて以来7年5か月の間に,生徒の勤労は「行体一致」の精神のもとに人的資源として戦力の重要な一部分となったが,このような環境の中で,国家に対する滅私奉公と勤勉,忍耐力は培われていったが,それが自発性によるものではなく超国家主義体制の中での押しつけの教育であったところに,人間形成上きわめて重大な問題を残したと思われるのである。このようにして学校教育における戦時非常措置は,男女生徒を皇国民として人的資源の立場から平等にしたが,その施策にあたっては時局の要請に対して男女の特性に応じた勤労を推進したのである。そして昭和期終戦までり女学校教育は,学校工場における軍服縫製の例にもみられるように,15歳の女学生においてすでに女子の特性となり得るだけの家政的な面での技術的能力を発揮した。ここにこの時代の女子教育の特色を見出すことができると思われるのである。

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