- 著者
 
          - 
             
             石出 猛史
             
          
 
          
          
          - 出版者
 
          - 千葉大学
 
          
          
          - 雑誌
 
          - 千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
 
          
          
          - 巻号頁・発行日
 
          - vol.72, no.4, pp.225-233, 1996-08-01 
 
          
          
          
        
        
        
        日本国内が尊皇攘夷運動で揺れる中,佐倉藩も真忠組の乱・水戸藩子年騒動などに際して頻繁に出兵を強いられた。元治元年(1864)前藩主堀田正睦が没した後,慶応年間に入っても医療制度改革は継続して行われた。この改革は藩の兵制改革の一環として行われた。その内容は,(1)藩の制式医学として西洋医学の採用と漢方医学の廃止,(2)藩医の職制の変更と軍医としての再編成,(3)養生所の開設が挙げられる。しかし明治新政府の成立に伴って明治3年(1870)種痘事業も医学所から在野の町医に移管され,同年11月には佐倉藩医学所も閉鎖された。その後も藩校において医学教育は行われたが,明治5年の学制発布に伴って藩校も閉鎖された。ここに39年間にわたる佐倉藩独自の医療制度も幕が下ろされた。