著者
石出 猛史
出版者
千葉大学
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.1-9, 2001-02

洋の東西を問わず,古来より医療と呪術・信仰とは密接な関わりを持ってきた。これは形を変えて現在でも存続している。時代が進むに連れて,疾病の本態の究明・治療に解析的な手法が導入されるようになると,それまで経験的におこなわれてきたことから,有効な機序を見出し,それを診療に還元する方法がとられてきた。しかしとられた方法の実効性を検証するためには,多くの場合長期の予後の追跡を必要とする。この部分についてはやはり経験医学である。ここに医学領域における歴史学的思考法の重要性がある。現存する生物は,地球における生命誕生以来というより,地球誕生以来のエッセンスと考えるべきであろう。新たに開発される医療技術は,あらゆる意味において生命予後を改善すべきものでなくてはならない。本稿では,江戸時代当時の人々に身近にあった疾病を対象として,その取り組みについて触れる。
著者
石出 猛史
出版者
千葉医学会
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.84, no.5, pp.221-224, 2008-10-01

本邦においては古来より近世に至るまで,医学研究としての人体解剖が禁止されていたということが,定説化している。しかしいずれの時代においても,解剖の禁止を明文化した条文は見出されていない。近世の徳川幕政下においては,『御定書百箇条』によって,処刑後の罪因の処置について,処刑方法に応じて細く規定されていた。幕府の刑罰には,処刑後に遺体を解体するという付加刑は存在していなかった。山田浅右衛門で知られる様し斬りは,刑死体に刃を入れることが公認されていた唯一の付加刑である。腑分は様し斬りに準じて許可されたことが推定される。従って腑分は当初から様し斬りと競合する関係にあったのだろう。様し斬りに関る刀剣の鑑定などを収入源にしていた山田浅右衛門家にとって,刑死体を多数腑分に供されることは,死活問題であったのだろう。徳川幕府統治下の日本は法治国家である。本邦における腑分の歴史を検討する時,法制度からの観点が必要ではないであろうか。江戸幕府の法制度上,腑分の禁止条項があったとは考えられない。
著者
石出 猛史
出版者
千葉医学会
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.81, no.5, pp.213-218, 2005-10-01

亥鼻分館所蔵「ゐのはな古書コレクション」の中に, 浮世絵師歌川国芳の錦絵版画『華佗骨刮関羽箭療治図』がある。『通俗三国志演義』中の関羽将軍の一逸話を題材にとった作品である。国芳は多くの作品を遺しているが, その対象は, 武者絵・美人画・役者絵・風景画・戯画・魚類画, さらに時の為政者を風刺した「判じ絵」など多彩な領域に及んでいる。なかでも武者絵の評価が高<, 「武者絵の国芳」として名高い。武者絵として評価されている『華佗骨刮関羽箭療治図』にも, 「判じ絵」の要素が含まれているのではないかと考えられる。In one of the Inohana old book collections held at the Inohana Branch Library, the Library of Health Sciences, there is a color print, by an ukiyo-e (Japanese woodblock prints) artist Kuniyoshi Utagawa, depicting the "Portrayal of the Physician Kuada Scraping the Bone of Kuan Yu to treat an Arrow Wound". This print depicts one of the anecdotes about a warlord Kuan Yu in Tsuzoku Sangokushi (the Popular History of the Three Kingdoms). Kuniyoshi left many excellent art works, and his print subjects include a wide variety of areas such as warriors, beautiful women, actors, landscapes, comics and fish, even further including hanji-e (a print based on a rebus) caricaturing the government officials of that time. He was most recognized for his prints depicting warriors. Further, he was renowned as the master of warrior prints. It is deemed that an element of hanji-e may have been included in the "Portrayal of the Physician Kuada Scraping the Bone of Kuan Yu to treat an Arrow Wound".
著者
石出 猛史
出版者
千葉大学
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.69, no.6, pp.399-403, 1993-12-01

江戸時代末期において,千葉市内で実施された種痘について書かれた古文書をもとに,当時の予防医学について検討を行った。安政7年佐倉藩の医師2名が,現在の千葉市若葉区平川町に巡回し,近隣の町村の児童に種痘を行った。この佐倉藩医師の巡回による種痘は,慶応3年2月に仮種痘所が設置されるまで行われた。平川町における種痘は,佐倉藩領民のみならず,他領の町村民にまで施された。しかし,この時の佐倉藩領民の受診率は決して高いものではなかった。その理由として,1人当り300文の種痘代の負担が考えられる。その他には,疾病および予防医学に対する,住民の理解不足が推定された。種痘実施のsystemに関しては,村役人を通じての,藩政府からの通達の徹底化,「宗門五人組帳」の受診者台帳としての利用,仮種痘所の設置など,現代の予防接種施行の基礎が,すでにできあがっていたことが推定された。
著者
石出 猛史
出版者
千葉医学会
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.15-23, 2006-02-01
参考文献数
13
著者
石出 猛史
出版者
千葉大学
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.72, no.4, pp.225-233, 1996-08-01

日本国内が尊皇攘夷運動で揺れる中,佐倉藩も真忠組の乱・水戸藩子年騒動などに際して頻繁に出兵を強いられた。元治元年(1864)前藩主堀田正睦が没した後,慶応年間に入っても医療制度改革は継続して行われた。この改革は藩の兵制改革の一環として行われた。その内容は,(1)藩の制式医学として西洋医学の採用と漢方医学の廃止,(2)藩医の職制の変更と軍医としての再編成,(3)養生所の開設が挙げられる。しかし明治新政府の成立に伴って明治3年(1870)種痘事業も医学所から在野の町医に移管され,同年11月には佐倉藩医学所も閉鎖された。その後も藩校において医学教育は行われたが,明治5年の学制発布に伴って藩校も閉鎖された。ここに39年間にわたる佐倉藩独自の医療制度も幕が下ろされた。
著者
石出 猛史
出版者
千葉大学
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.97-106, 2004-06-01
被引用文献数
1

本学医学部の起源とされる共立病院は,明治7年(1874),千葉町の醤油醸造業者近江屋事柴田仁兵衛の倉庫を借りて開始された。一方,当時の院長二階堂謙の県知事に対する熱心な慟きかけが功を奏し,共立病院においても遺体の解剖実習を行うことが可能となった。当初,解剖は千葉新田にあった墓地内の小屋で行われた。第一高等中学校医学部時代に入ると,「長尾文庫」が創設され,近隣の住民にも解放された。文庫は,後に,本学図書館亥鼻分館に吸収されたと考えられている。医学部がある亥鼻山は,中世には千葉氏の本城があったとされている。数次にわたる発掘調査が行われており,城郭の遺構は確認されているものの,大規模な建造物の遺跡は見出されていない。近世以降繰り返されてきた畑地としての耕作,佐倉藩陣屋等の構築により,遺跡が破壊されてきたことも推定される。七天王塚の石碑群も風化等による破損が進んでいる。明治初頭の地籍調査記録中,千葉町に「千葉七俗霊神塚」の記述がみられる。七天王塚の原型と考えられるが,実態は不明である。
著者
石出 猛史
出版者
千葉医学会
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.87, no.4, pp.139-149, 2011-08-01

千葉大学医学部の源は,明治7年(1874)に創設された共立病院とそれを継いだ公立千葉病院である。病院の設立は千葉県の衛生行政の一環として行われた。旧幕時代の慶応3年(1867)佐倉藩では,主として下級藩士と領内の窮民を対象とした洋式病院が設立運営されたが,共立病院は千葉県民を対象とした洋式病院の嚆矢でもあった。千葉県では新たに医師になる者に対して,洋式医学を教育するための機関として,公立千葉病院に医学教場を設置した。一方従来の開業医を対象として,県内各地に医学講習所を設けて,洋式医学の教育を行った。共立病院・公立千葉病院の医師は通常の診療のみならず,医学生の教育・住民に対する種痘・梅毒検疫などの多種多様な業務をこなした。医学教場の卒業生は,公立千葉病院で診療にあたるか地域での診療に従事した。千葉県における近代の医療は,当初このような医師たちによって担われた。またこの時代の数少ない知識人として,地方の行政において指導的な役割を果たす医師も少なくなかった。