著者
石出 猛史
出版者
千葉大学
雑誌
千葉医学雑誌 (ISSN:03035476)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.97-106, 2004-06-01
被引用文献数
1

本学医学部の起源とされる共立病院は,明治7年(1874),千葉町の醤油醸造業者近江屋事柴田仁兵衛の倉庫を借りて開始された。一方,当時の院長二階堂謙の県知事に対する熱心な慟きかけが功を奏し,共立病院においても遺体の解剖実習を行うことが可能となった。当初,解剖は千葉新田にあった墓地内の小屋で行われた。第一高等中学校医学部時代に入ると,「長尾文庫」が創設され,近隣の住民にも解放された。文庫は,後に,本学図書館亥鼻分館に吸収されたと考えられている。医学部がある亥鼻山は,中世には千葉氏の本城があったとされている。数次にわたる発掘調査が行われており,城郭の遺構は確認されているものの,大規模な建造物の遺跡は見出されていない。近世以降繰り返されてきた畑地としての耕作,佐倉藩陣屋等の構築により,遺跡が破壊されてきたことも推定される。七天王塚の石碑群も風化等による破損が進んでいる。明治初頭の地籍調査記録中,千葉町に「千葉七俗霊神塚」の記述がみられる。七天王塚の原型と考えられるが,実態は不明である。

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