- 著者
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黛 秋津
- 出版者
- 日本スラヴ・東欧学会
- 雑誌
- Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
- 巻号頁・発行日
- vol.27, pp.1-31, 2007-03-30
現在のルーマニアの主要部分を成し、一定の自治権を有する属国としてオスマン支配に組み込まれたワラキアとモルドヴァの二つの公国は、16・17世紀のオスマン帝国の西欧に対する優位の時代にはイスタンブルの統制下にあった。しかし18世紀に入るとこの地には、北方に台頭したロシアの影響が徐々に及ぶようになる。1768年の露土戦争に勝利したロシアは、1774年に締結されたキュチェク・カイナルジャ条約により両公国に関する発言権を獲得し、同時にモルドヴァに傀儡の公を立てることに成功した。その後、傀儡の公を通じての両公国への勢力浸透というロシアの目的は、オスマン政府によるその公の処刑により挫折したものの、ロシアは両公国に親ロシア派の人物を長期間公位に留まらせることを一貫して目指し、18世紀末における、フランス・オスマン間の断交、ロシア・オスマン、またイギリス・オスマン同盟というオスマン帝国をめぐる国際環境の変化と、アーヤーン(オスマン帝国内の各地に自立する有力者層。しばしば中央政府と対立)によるバルカンでの混乱を利用して、1802年の勅令において両公国におけるさらなる権利を得た。事実上の露土間の外交合意であるこの勅令の中では、公の任期は7年と定められ、オスマン政府による自由な公の任免はそれまで以上に困難となった。また同時に、ロシアは自らに好都合な人物をワラキア公位に就けることにも成功した。この問題は、その後フランスがオスマン帝国に接近するにあたって、露土間の離反のために利用され、1806年にオスマン政府がフランスの主張に従って、ロシアへの通告なしに突然公を解任したことが、オスマン外交の親仏路線への転換とロシアに見なされた結果、同年末に開始される露土戦争勃発の直接の契機となった。このように、宗主国による付庸国の長の任命というオスマン帝国内の問題が、1774年キュチュク・カイナルジャ条約以来わすか30年余りの期間に、オスマン帝国の外交路線を表わす象徴的な意味が付与される程の、重要な国際間題へと発展したことは、この時代オスマン帝国がロシアと共に西欧国際体系へと急速に包摂されて行く過程の一端を表わしていると言える。