著者
笠原 正夫
出版者
鈴鹿大学
雑誌
鈴鹿国際大学紀要Campana (ISSN:13428802)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.71-85, 2007-03-20

徳川幕府は,将軍が代替りすると全国へ諸国巡見使を派遣した.各藩主の統治の実態を幕府(公儀)権力は掌握することをねらったのである.紀伊国へは大和国から入国して南下し,熊野地方を通って,伊勢国へ抜けていく場合と,逆に伊勢国から熊野地方へ入り,北上して大和国へ抜けていく場合の二通りがあった.巡見使が途中で領民に質問があったときの回答書を紀州藩が作成し,「手鑑」として村々へ配布している.藩側にとって不都合な発言をさせないためである.幕藩制下の藩というもう一方の分権的権力を把握しようとする公儀権力の目的は妨げられている.本稿は,宝暦10年(1760)の巡見使の来訪時の熊野地方のうちの付家老水野氏の所領(新宮領3万5000石)の状況を考察するが,領内に布達した巡見使に関する一切の触はすべて紀州藩から出されており,水野氏はそれに従うのみで独自な判断はできなかった.巡見使の来訪が近づくと,通行が予想される道路の点検と修復,新宮川の危険箇所の整備,それに伴う出人足や川舟と水主の村々への割り当てなど任務は多岐にわたったが,それを処理するのに地域の実状に最も熟知している大庄屋を駆使して行なった.本稿で利用した「万覚留帳」は,新宮領請川組大庄屋須川善六が書き留めた記録であるが,巡見使の通行に際し多岐にわたる任務に領民をどう徴発するのか,その状況を明らかにしながら領主権力が領内の村や領民支配が貫徹していく実状を解明する.

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