著者
小山 哲
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-20, 2008-03-30

現在、ラテン語は日常生活で用いられる言語ではない。にもかかわらず、ポーランドでは、「ラテン語文化」(latinitas)を基盤とする文化圏に帰属しているという感覚は、今日なお根強いものがある。この帰属意識は、近世(16〜18世紀)のポーランド・リトアニア共和国の文化的な遺産に深く根ざしたものである。本稿では、近年の社会史・政治文化史研究の成果をふまえながら、16・17世紀のポーランド・リトアニアにおける「生きた言語」としてのラテン語の文化的・社会的機能について再考した。近世のポーランド・リトアニアに滞在した外国人は、ポーランドの貴族層(シュラフタ)が幼少時からラテン語を熱心に学んでいると記している。じっさい、17世紀初頭のある少年貴族の肖像画には、彼が学んだラテン語の書物(キケロ、セネカ、ウェルギリウス、オウイデイウスなど)が描きこまれている。貴族層のラテン語熱は、16世紀の人文主義の興隆を背景とする比較的新しい現象であった。16世紀から17世紀前半にかけて、シュラフタは子弟を西欧に留学させ、古典語と修辞学を学ばせた。また、16世紀後半から共和国各地に創設されたイエズス会の学校は、ラテン語の実践的な運用能力を高める教育を行ない、人気を博した。多様な言語集団からなるポーランド・リトアニア共和国では、ラテン語はポーランド語と並ぶ重要な公用語であった。ラテン語の知識は、共和国の支配身分であるシュラフタにとって、宮廷・議会・法廷などで活動するために不可欠の教養であった。また、古代ローマの共和政を理想とするシュラフタの国家観も、ラテン語文化との一体感を強める要因となった。シュラフタは、演説や書簡でしばしばラテン語とポーランド語を混用する独特な文体を用いた。ラテン語の挿入は、彼らの発言の「貴族らしさ」を高める効果をもっていた。当時の史料には下位身分のあいたでもラテン語が通用したという証言があるが、彼らのラテン語は一種の「ピジン語」であったと考えられる。また、ラテン語は、女性にはふさわしくない言語であるとみなされていた。このように、多民族・多言語国家としての共和国において、ラテン語の知識は、支配身分であるシュラフタを文化的に統合する要素の1つであった。他方で、ラテン語は、貴族男性を女性や下位身分の人びとから区分する差異化のコードとしても機能した。ラテン語はまた、共和国の対外的なコミュニケーション言語として重要な役割をはたすと同時に、東方正教圏に人文主義が波及するさいの媒介語ともなった。近世ヨーロッパの東部辺境においてラテン語が担っている多様な機能は、近代的な国民言語が成立する以前の社会における古典語の役割、ヴァナキュラーな言語と古典語の関係、等の問題について、より広範な比較史的検討を促している。

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